広徳寺(こうとくじ) は、東京都練馬区桜台六丁目にある、臨済宗大徳寺派の寺院。山号は円満山。
戦国時代、関東一円に勢力を扶植していた北条氏当主・北条氏政の3男で、岩槻城主であった太田源五郎が小田原に明叟和尚を招き、早雲寺の子院として開山したことが由来とされている。なお、太田源五郎は、かつては太田氏房と同一人物であるとされていたが、近年の研究で、氏房の早世した実兄が先に太田氏を継承して「源五郎」と名乗っていた事実が判明している。
天正18年(1590年)に豊臣秀吉の遠征により小田原城は開城し、北条氏が滅亡した際に広徳寺も炎上、焼失したとされている。その後、秀吉の命により関東を所領とした徳川家康は、天正19年(1591年)に広徳寺の2世となる希叟和尚を招き、江戸の神田に広徳寺を再興した。そして寛永12年(1635年)には下谷に移り、加賀前田氏をはじめ、九州の立花氏、織田氏など多くの大名が檀家とする大寺院となった。その広さは大田南畝の狂歌で「びっくり下谷の広徳寺」と詠まれたほどである。これは現在でも知られている地口の一つで、「恐れ入谷の鬼子母神」などと並んで知られている。
大正12年(1923年)の関東大震災により、寺域はほぼ焼失。その2年後の区画整理で現在の練馬区に墓地のみを移転し別院とした。その後昭和46年(1971年)には本坊も練馬に移転し、現在の形となった。
東京都練馬区桜台六丁目20番18号