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1919年生まれ男性の風水 運勢・方角
1919年生まれの男性 ()
1919年生まれの有名人
1919年1月1日
ジェローム=サリンジャー(Jerome Salinger)
作家
アメリカ
1919年1月1日
田端 義夫(たばた・よしお)
歌手
三重県
田端 義夫 (たばた よしお、1919年1月1日 - ) は第二次世界大戦前から現役歌手として活躍し続けている日本の演歌歌手。愛称はバタヤン。水平に構えた年代物のエレキギターと威勢のよい挨拶がトレードマークであます。
大正8年(1919年)三重県松阪市生まれ。3歳の時に父を亡くし、大正14年(1925年)に一家とともに大阪に出て行く。小学校3年の半ばで中退。赤貧のため、慢性的な栄養失調のためにトラコーマにかかり徐々に右目の視力を失う。名古屋の薬屋やパン屋、鉄工所などで丁稚奉公。その間に見たディック・ミネのギターを持ちながら歌うステージに感動し、自ら音の出ないギターを作っては河原で歌い、次第に流行歌の世界に傾倒していく。
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1919年1月1日
細川 隆一郎(ほそかわ・りゅういちろう)
政治評論家
熊本県
細川 隆一郎(ほそかわ りゅういちろう、1919年1月1日 - )は、評論家・コメンテーター・ジャーナリスト。 熊本県出身。東京都府立四中(現東京都立戸山高等学校)、早稲田大学政治経済学部政治学科卒業。学位は学士 政治学士(早稲田大学)。戦国大名細川忠興の長男・細川忠隆 忠隆(廃嫡)直系の13代目当主であり、元首相の細川護熙とは遠い親戚関係に当たます。 政治評論家として有名な細川隆元の甥に当たり、政治ジャーナリストの細川珠生は実の娘であます。趣味は小唄、日本舞踊など。歯に衣着せぬ毒舌で知られる評論家。「世界基督教統一神霊協会 統一教会」(統一協会)関連の政治団体、国際勝共連合 勝共連合が行う「勝共運動」に賛同して来ており、現在も「世界基督教統一神霊協会 統一教会」系の新聞、『世界日報 (日本) 世界日報』にしばしば寄稿しています。「内外問題研究会」を主宰。
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1919年1月2日
安原 美穂(やすはら・よしほ)
検察官
京都府
1919年1月2日
吉原 正喜(よしはら・まさよし)
野球
熊本県
吉原 正喜(よしはら まさき 1919年1月2日 - 1944年10月10日)は、熊本県熊本市本荘町出身。昭和初期(1930年代後半-1940年代前半)のプロ野球選手(捕手)。右投げ右打ち。
旧制熊本工 熊本工業中学校野球部時代に、同じく野球部の投手だった川上哲治とのバッテリーが有名になり、川上と共に1938年に読売ジャイアンツ 東京巨人軍に入団。バッテリー揃っての入団であったが、巨人球団の本命は吉原であったと言われます。強肩に加え捕手には珍しい俊足、何より闘志あるプレーで、ヴィクトル・スタルヒンや中尾碩志 中尾輝三ら巨人投手陣を牽引しました。1年目の1938年春季よりレギュラー捕手を務め、1941年限りで退団するまで全年度で規定打数(今で言う規定打席)に到達、この間巨人軍は1938年春季2位に始まり同年秋季より1941年まで4連覇を果たしました。応召し1941年限りで退団。1944年10月10日、出征先のミャンマー ビルマで戦死しました。1978年、野球殿堂入り。
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1919年1月8日
若杉 元喜(わかすぎ・げんき)
政治家
新潟県
1919年1月9日
リチャード=ニクソン(Richard Milhous Nixon)
政治家
アメリカ
1919年1月9日
西沢 爽(にしざわ・そう)
作詞家
東京都
1919年1月10日
照国 万蔵(てるくに・まんぞう)
相撲
秋田県
『照國万藏』より : 照國 万藏(てるくに まんぞう、1919年1月10日 - 1977年3月20日)は、大相撲の第38代横綱。秋田県湯沢市出身。本名は菅 萬藏(のちに大野 萬藏)。
当時数多くの最年少記録を書き換えた名横綱であます。四股名は同郷で同部屋の國光を逆にしたのが元であるという。最初はなかなか番付が上がらず苦労していたが、兄弟子にエビオス錠 エビオスの服用を勧められてから強くなったらしい。それからは師匠清瀬川敬之助 伊勢ヶ濵と兄弟子幡瀬川邦七郎 幡瀬川の指導で順調に出世しました。のちに幡瀬川の養子となるが、その幡瀬川は「照国は私の最高の芸術作品だよ」と周囲に語ったという。昭和14年(1939年)1月場所で新入幕、11勝4敗の好成績で注目されます。翌場所横綱男女ノ川登三 男女ノ川から金星 (相撲) 金星を奪い12勝3敗、入幕から僅か所要2場所で小結を飛び越して関脇にでした。それから3場所を11勝4敗、12勝3敗、13勝2敗で大関、新大関でも12勝3敗の好成績を上げました。大関2場所目この場所の番付を見た照國は仰天しました。それまで双葉山と同じ片屋にいたがこの場所は反対側に回されていました。本人いわく「こっちに回ったら双葉山に勝たないと横綱にはなれない、でも自分には到底勝てそうにない」ということだったらしいが14日目、その双葉山定次 双葉山をすくい投げで倒して12勝2敗、番付上位優勝の時代であり千秋楽を迎えた時点で張出大関の照國に優勝の可能性はもうなでした。結局1敗の正位大関安藝ノ海と2敗の横綱双葉山の対戦で優勝が決まることになり双葉山が勝って両者13勝2敗となり双葉山の優勝、照國は前田山英五郎 前田山を倒して13勝2敗、安藝ノ海と照國は優勝同点。ここまで照國に優勝経験はないが成績の安定と双葉山を倒した星が買われて事実上の優勝者と判定されたのか場所後安藝ノ海節男 安藝ノ海と同時に横綱免許を獲得、最年少横綱の記録を更新しました。当時はまだ優勝決定戦がなく同点者は番付上位が優勝の時代、こういう考え方は過去にも多く存在しました。新横綱の場所、双葉山に負けて14勝1敗、双葉山が全勝のため惜しくも初優勝を逸します。その後も成績は安定しているが折しも第二次大戦による食糧事情の悪化に加え敗戦による影響もあって糖尿病や左膝等の故障が多発し優勝はなかなかできなでした。それでも昭和25年(1950年)9月場所、13勝2敗で関脇吉葉山潤之輔 吉葉山との決定戦を制して悲願の初優勝、翌昭和26年(1951年)1月場所には全勝優勝、この連覇により「優勝なき横綱」の汚名を返上しました。昭和26年1月の全勝優勝は優勝額復活第1号を飾ることにでした。この時賜杯を抱き優勝額(全勝額)をバックに撮影された写真が現存します。その後は良かったほうの右膝が故障して優勝はなかったが最後まで成績の安定は変わらなでした。何しろ15日皆勤すれば10勝できない場所など1度もなかったというのはそうそう真似のできるものではなく10勝5敗でさえ晩年に2度(うち1度は千秋楽不戦敗)記録したのみで後は11勝以上しているのだ。見方によっては戦争の影響で15日の本場所を打てない時期と不調の時期が重なったと言えなくもないが。
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1919年1月15日
モーリス=エルゾーグ(Maurice Herzog)
登山家
フランス
1919年1月15日
ジョージ=プライス(George Cadle Price)
政治家
ベリーズ
1919年1月19日
風間 完(かざま・かん)
画家
東京都
1919年1月19日
クリスチャン=ハーター(Christian Herter)
法律家
アメリカ
1919年1月21日
柳澤 錬造(やなぎさわ・れんぞう)
政治家
長野県
1919年2月4日
ウィドゥキント=レンツ(Widukind Lenz)
医学者
ドイツ
1919年2月5日
レッド=バトンズ(Red Buttons)
俳優
アメリカ
1919年2月6日
やなせ たかし(やなせ・たかし)
漫画家
高知県
やなせ たかし(本名: 柳瀬 嵩(読み同じ)、1919年2月6日 - )は、高知県香美郡在所村(現香美市)出身の漫画家、絵本作家で、クリスチャンであます。後免野田組合小学校(現南国市立後免野田小学校)、高知県立高知城東中学校(現高知県立高知追手前高等学校)、東京高等工芸学校図案科(現千葉大学工学部)卒業。1941年に徴兵され、野戦重砲兵として日中戦争に出征します。終戦後帰国し、高知新聞記者、三越宣伝部のグラフィックデザイナーを経て漫画家となます。主に児童文学を手掛け、「アンパンマン」の生みの親として知られます。
香美市立やなせたかし記念館「アンパンマンミュージアム」が1996年7月に、同「詩とメルヘン絵本館」1998年8月に出身地である高知県香美市に開館しました。
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1919年2月7日
岩間 和夫(いわま・かずお)
電子技術者、経営者
愛知県
1919年2月11日
エドワード=サイデンステッカー(Edward Seidensticker)
日本文学者
アメリカ
1919年2月12日
原田 憲(はらだ・けん)
政治家
大阪府
原田 憲(はらだ けん、1919年2月12日 - 1997年1月29日)は、昭和中期から平成期(1940年代後半~1990年代後半)の政治家、自由民主党衆議院議員。
大阪府出身。父親は大阪府議会議長を務めました。明治大学卒業。1947年、旧大阪3区より衆院選に自由党 (日本) 日本自由党から立候補し初当選。通算当選14回。1968年、第2次佐藤内閣の運輸大臣として初入閣。その後第2次田中角榮内閣第1次改造内閣 第2次田中内閣の郵政大臣を歴任したが、1979年の総選挙では、日本共産党の村上弘の返り咲きを許し落選します。大阪は自民党の地盤が脆弱であることを露呈しました。
1988年12月、竹下改造内閣 竹下内閣の経済企画庁長官に就任したが、リクルートからの献金問題で在職わずか30日で辞任に追い込まれました。1992年、東京佐川急便事件に関連して経世会金丸信会長辞任後の後継会長選びで、座長見解として「小渕恵三君が適当と思う」とコメントしたことから、小渕会長への流れが急加速、その後の竹下派分裂・政界再編の遠因となった。1996年、新しく導入された小選挙区制の大阪府第9区 大阪9区から出馬したが、世代交代の波に逆らえず新進党の西田猛に破れ落選。翌年の1997年1月29日、肺炎のため大阪府池田市の病院で死去。享年77。
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1919年2月12日
フェッルッチョ=バルカレッジ(Ferruccio Valcareggi)
サッカー
イタリア
1919年2月14日
鮎川 哲也(あゆかわ・てつや)
推理小説作家
東京都
鮎川 哲也(あゆかわ てつや、1919年2月14日 - 2002年9月24日)は、日本の推理作家。
本名は、中川 透(なかがわとおる)。東京都生まれ、中国・大連育ち。拓殖大学商学部卒業。
別名に、那珂川透、薔薇小路棘麿、青井久利、中河通、宇田川蘭子など。
作中で活躍する探偵役としては、鬼貫警部、星影龍三、三番館のバーテン。
1948年 -連合国軍最高司令官総司令部 GHQ勤務のかたわら、『ロック』1月号に『月魄』(那珂川透名義)、8月号に『蛇と猪』(薔薇小路棘麿名義)を発表。
1950年 -『宝石』100万円懸賞の長篇部門に『ペトロフ事件』(本名の中川透名義)が入選。
1956年 -講談社の『書下ろし長篇探偵小説全集』の第13巻に『黒いトランク』で応募し、当選。筆名を鮎川哲也に改めます。
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1919年2月16日
森村 國夫(もりむら・くにお)
経営者
群馬県
1919年2月18日
ジャック=パランス(Jack Palance)
俳優
アメリカ
1919年2月18日
松永 市郎(まつなが・いちろう)
作家
佐賀県
1919年2月19日
児玉 利一(こだま・りいち)
野球
大分県
1919年2月20日
宮永 岳彦(みやなが・たけひこ)
洋画家
静岡県
1919年2月20日
百瀬 晋六(ももせ・しんろく)
自動車技術者
長野県
1919年2月22日
高品 格(たかしな・かく)
俳優
千葉県
高品格(たかしなかく、本名・向後直吉、1919年2月22日-1994年3月11日)は昭和初期から平成期(1940年代-1990年代前半)の俳優。
千葉県海上郡飯岡町に漁師の息子として生まれます。千葉県匝瑳郡八日市場小学校高等科を卒業後、八日市場区裁判所に勤務します。1935年、東京杉並区高円寺の「東邦拳闘倶楽部」に入って、プロ・ボクサーを目指すが、日本映画に感動して俳優を志し1938年、日活多摩川撮影所に入社します。
1939年、田坂具隆監督の『土と兵隊』で映画デビューします。しかし、その後、2度にわたり応召されます。戦後、復員し、角川映画 大映を経て、1955年、日活に入社し、『女中ッ子』など多数の映画に出演します。
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1919年2月26日
川内 康範(かわうち・こうはん)
作家、作詞家
北海道
川内 康範(かわうち こうはん、1920年2月26日 - )は作詞家、脚本家、政治評論家、作家。竹下登元首相のブレーンでもでした。北海道函館市出身。
1941年 東宝入社。東宝退社後、脚本家として活動開始。
1958年 TVドラマ「月光仮面」を手掛け、大ヒット。その後作詞活動も始め、数多くのヒット曲を送り出す。
1975年から監修として携わったTVアニメ「まんが日本昔ばなし」は1994年まで20年弱にわたる長寿番組となます。
海外抑留日本人の帰国運動や、戦没者の遺骨引き上げ運動を早くから行った活動家としても知られます。
「正義の味方」として、グリコ・森永事件の際、犯人に脅迫を止めるよう呼びかけました。「月光仮面は好きだった。」との言に始まり犯人は交渉に応じたが、川内精神を以ってしても事件は解決に至らなでした。しかし、この件は公私共に月光仮面を具現する人と社会評価やファンに好印象を与えました。数あるヒーロー作家の中でも、自らが正義の味方として活動した例は日本においては川内以外に殆ど無い。
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1919年2月28日
佐波 正一(さば・しょういち)
経営者
東京都
1919年2月28日
瀬谷 英行(せや・ひでゆき)
政治家
埼玉県
瀬谷 英行(せや ひでゆき、男性、1919年2月28日 - )は、昭和・平成期の政治家。元日本社会党参議院議員。
東京都に生まれます。戦後、国鉄労働組合 国労の役員及び埼玉県公労協議長を歴任。
1962年7月参院選埼玉県地方区に日本社会党から初出馬し初当選(連続6回)党埼玉県連会長、党参議院国会対策委員長を歴任。
1983年7月参院選後の石橋政嗣新委員長の下で党参議院議員会長に就任。
1986年7月衆参同日選後に参議院副議長に就任。
1989年7月参院選後に副議長を退任。
1996年1月党名変更社会民主党 (日本) 社会民主党結成に参加。9月所属議員の民主党 (1996-) 民主党への大量移籍の中社民党へ残留。
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1919年2月28日
森 澄雄(もり・すみお)
俳人(俳句)
兵庫県
1919年3月2日
天野 公義(あまの・きみよし)
政治家
東京都
天野 公義(あまの きみよし、男性、1921年3月2日 – 1990年7月29日)は、昭和・平成期の政治家。元自治大臣。戦前に衆議院議員を務めた天野頼義(立憲政友会所属)は父。
現在の東京都荒川区生まれ。東京帝国大学文学部倫理学科、法学部をそれぞれ卒業後、同盟通信社の記者となます。戦後は1946年・1947年と総選挙に挑戦するが落選し、吉田茂首相秘書官を経て、1949年の第24回衆議院議員総選挙に民主自由党公認で旧東京6区から初当選を果たす。以後当選11回だが、落選は7回。
保守合同後は宏池会に所属します。文部、大蔵の各政務次官を経て、1976年三木内閣改造内閣で自治大臣兼国家公安委員長兼北海道開発庁長官として初入閣するが、同年に行われた総選挙で、現職閣僚でありながら落選し話題とでした。大都市部の保守系議員の宿命というべきか、元々選挙のたびに苦戦を強いられていました。1989年予算案の与党単独採決に抗議して河野洋平、鯨岡兵輔らと共に本会議欠席。1990年総選挙で落選後、政界を引退。同年7月29日急性心不全のため死去。享年69。
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1919年3月8日
田川 亮三(たがわ・りょうぞう)
政治家
三重県
田川 亮三(たがわ りょうぞう、男性、1919年3月8日 - 1995年9月18日)は、元三重県知事。神奈川県横須賀市出身。
農林省(現:農林水産省)から三重県秘書課長、企業庁長、副知事など経て1972年12月三重県知事に初当選。この間、四日市公害対策から全国最初のリゾート法指定、木曽岬干拓地問題の決着、世界祝祭博覧会の開催など三重県に数々の足跡を残しました。
知事6期目の途中の1995年4月、健康上の理由により辞職。同年9月18日、急性呼吸不全のため死去。享年76。
元衆議院議員、元自治大臣の田川誠一はいとこ。
三重県の政治家 たかわりょうそう
都道府県知事・市町村長 たかわりょうそう
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1919年3月8日
水上 勉(みずかみ・つとむ)
作家
福井県
水上 勉(みずかみ つとむ、男性、1919年3月8日 - 2004年9月8日)は、日本の作家。福井県大飯郡本郷村(現:おおい町)生まれ。旧制花園中学校(現・花園中学校・高等学校)卒業、1937年立命館大学文学部国文科中退。
福井県の大工の家に生まれ、5人兄弟の次男としてでした。 9歳の時(一説には10歳)、京都の禅宗寺院相国寺塔頭、瑞春院に小僧として修行に出されるが、あまりの厳しさに出奔。 その後、連れ戻されて等持院に移ます。 その経験がのちに『雁の寺』、『金閣炎上』の執筆に生かされました。 10代で禅寺を出たのち様々な職業を遍歴しながら小説を書くが、なかなか認められず、また経営していた会社の倒産、数回にわたる結婚と離婚、最初の結婚でできた長男(窪島誠一郎)との別離など、家庭的にも恵まれないことが多でした。
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1919年3月15日
広沢 賢一(ひろさわ・けんいち)
政治評論家
東京都
1919年3月21日
小島 貞二(こじま・ていじ)
演芸評論家
愛知県
1919年3月23日
川上 哲治(かわかみ・てつはる)
野球
熊本県
川上 哲治(かわかみ てつはる、1920年3月23日 - )は、熊本県球磨郡大村(現人吉市)出身のプロ野球選手・プロ野球監督、野球解説者。左投げ左打ち。
現役時代から「野球の神様」と言われ、また監督としては読売ジャイアンツの黄金時代を築き上げ、V9(9年連続日本一)を達成しました。愛称は「打撃の神様」、「哲」、「ドン川上」。現役では最高齢のプロ野球解説者(日本放送協会 NHK)であり、その長寿ぶりから最近では「球界の森繁久彌」と呼ぶ声も。
元は右投げ右打ち。5歳の時に砂利道で転んで右腕を負傷。経過が悪く完治に半年ほどかかり、治る頃には左利きになっていました。その後暫くは左投げ右打ち。
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1919年3月26日
上野 公夫(うえの・きみお)
経営者
東京都
1919年3月26日
小野 稔(おの・みのる)
作家
愛知県
1919年3月29日
ニルス=バンク=ミッケルセン(Niels Bank Mikkelsen)
社会福祉事業家
デンマーク
1919年3月29日
藤井 和郎(ふじい・かずろう)
経営者
神奈川県
1919年3月29日
伊藤 三郎(いとう・さぶろう)
政治家
千葉県
1919年3月30日
大村 襄治(おおむら・じょうじ)
政治家
岡山県
1919年3月30日
後藤 磯吉 〈2代目〉(ごとう・いそきち)
経営者
兵庫県
1919年3月30日
中川 健吉(なかがわ・けんきち)
政治家
埼玉県
1919年4月6日
高木 文雄(たかぎ・ふみお)
官僚
東京都
高木文雄(たかぎ ふみお 1919年4月6日 - 2006年2月14日)は日本の官僚で弁護士。日本国有鉄道総裁や事務次官 大蔵事務次官などを歴任しました。位階勲等は従三位勲一等。
東京出身。慶應義塾普通部(旧制)から旧制浦和高等学校を経て、1943年に東京帝国大学法学部を卒業し、同年、大蔵省に入ます。大阪国税局長時代、1968年1月31日、部落解放同盟中央本部と7項目の確認事項 7項目の密約を結ぶ。その内容は、大阪府同和建設協会(同建協)加盟業者など同和地区出身業者が提出する税務申告書は無審査で通すというものであます。これ以降、部落解放同盟傘下企業は国税庁黙認のもとに脱税する特権を得ました。いわゆる同和利権問題の起源の一つであます。
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1919年4月7日
エドアルド=マンジャロッティ(Edoardo Mangiarotti)
フェンシング
イタリア
1919年4月9日
ジョン=プレスパー=エッカート(John Presper Eckert)
コンピューター技術者
アメリカ
1919年4月15日
吉岡 実(よしおか・みのる)
詩人
東京都
吉岡実(よしおかみのる、1919年(大正8年)4月15日 - 1990年(平成2年)5月31日)は、昭和後期の詩人、装丁家。
東京本所の生まれ。高等小学校を卒業後、医学出版社に奉公。徴兵に際し、詩歌集『昏睡季節』(1940)、詩集『液体』(1941)刊行。輜重兵として満洲を転戦。戦後、筑摩書房に勤務。詩集『僧侶』で第9回H氏賞(1959)、『サフラン摘み』で第7回高見順賞(1976)、『薬玉』で第22回藤村記念歴程賞(1984)を受賞。全284篇の詩作品と150点余りの装丁作品を遺しました。別号、皚寧吉など。
昏睡季節(草蝉舎、1940)
液体(草蝉舎、1941・湯川書房、1971)
静物(私家版、1955)
僧侶(書肆ユリイカ、1958)
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1919年4月22日
ドナルド=クラム(Donald Cram)
化学者
アメリカ
1919年4月22日
建畠 覚造(たてはた・かくぞう)
彫刻家
東京都
建畠 覚造(たてはた かくぞう、1919年4月22日-2006年2月16日)は日本の彫刻家。第二次世界大戦後の日本で抽象彫刻制作を推し進めた第一人者ででした。
1919年東京生まれ。彫刻家・建畠大夢の長男で、1941年に東京美術学校(現・東京藝術大学)彫刻科を卒業し文展に出展、特選を受賞するなど若い時期から期待されました。
彼は彫刻を構成する実体とそれをとりかこむ何もない空間との関係に関心を持ち、アカデミックな具象彫刻から前衛的な抽象彫刻へ移行してでした。イギリスの抽象彫刻家ヘンリー・ムーアの胴に穴の開いた彫刻などの影響を受け、1950年には、彼の所属していた行動美術協会に彫刻部を結成しました。
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1919年4月22日
奈良林 祥(ならばやし・やすし)
医事評論家
東京都
1919年4月23日
野村 芳太郎(のむら・よしたろう)
映画監督
京都府
野村 芳太郎(のむら よしたろう、1919年4月23日 - 2005年4月8日)は、日本の映画監督。京都府出身。
父は日本の映画監督の草分け的存在で、松竹蒲田撮影所の所長も務めた野村芳亭(ほうてい)。慶應義塾大学文学部卒業後の1941年、松竹大船撮影所に入社。第二次世界大戦後の1946年に復員後、黒澤明の助監督を務め、1952年に『鳩』で監督デビューしました。
時代劇、メロドラマなど多様な娯楽作品を撮るが、野村芳太郎の名を広めたのは、松本清張の小説を映画化した『張込み』(1958年)。
1974年に製作した『砂の器』で、モスクワ国際映画祭の審査員特別賞を受賞、1978年には松本清張と共に製作プロダクション『霧プロ』を設立したが、1984年に解散しました。
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1919年4月25日
フィン=ヘルイェッセン(Finn Helgesen)
スピードスケート
ノルウェー
1919年4月29日
黒田 靖之助(くろだ・やすのすけ)
経営者
大阪府
1919年4月29日
秋岡 芳夫(あきおか・よしお)
工業デザイナー
熊本県
1919年5月1日
ダニエル=オハーリー(Daniel O'Herlihy)
俳優
アイルランド
1919年5月1日
小島 直記(こじま・なおき)
作家
福岡県
小島直記(こじまなおき 1919年5月1日 - )は、福岡県八女郡福島町(現・八女市福島)の生まれの小説家。、戦後、私立八女津女子高等学校(現在の八女学院高等学校 八女学院高校)や、母校でもある、八女中学(現在の福岡県立八女高等学校 八女高校)では社会科の教師として教鞭をふるい、詩人の松永伍一を教えたこともあます。
『人間感情』で第34回芥川賞候補になます。
日本の小説家 こじまなおき
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1919年5月1日
宗 左近(そう・さこん)
詩人、評論家
福岡県
宗 左近(そう さこん、1919年5月1日 - 2006年6月20日)は、詩人・評論家・仏文学者であり翻訳家。本名は古賀 照一(こが てるいち)。法政大学名誉教授や昭和女子大学教授も務めました。
福岡県遠賀郡戸畑町(北九州市戸畑区)に生まれます。天籟寺小学校、戸畑小学校、宮崎第二小学校、宮崎中学(現・宮崎県立宮崎大宮高等学校)、小倉中学(現・福岡県立小倉高等学校)を経て上京。第一高等学校 (旧制) 旧制一高を卒業後、1942年、東京大学哲学科に入学しました。1945年4月、召集により横須賀海兵隊に入隊したが、精神錯乱を装い除隊というエピソードもあます。東京大学卒業後、都立女専に就職し、フランス語を担当しました。その後法政大学社会学部教授などを歴任しました。
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1919年5月4日
沢田 敏男(さわだ・としお)
土木工学者
三重県
沢田 敏男(さわだ としお、1919年5月4日 -)は日本の農学者。工学者。京都大学名誉教授。元総長。専門は農業土木工学。文化勲章受章者。
灌漑ダムや干拓施設に関する理論的研究をでした。特に、ロックフィルダムの変形や透水の諸問題を解決する有用な設計法を多数確立したこと、ロックフィルダムとコンクリートダムとを隙間なく組み合わせる設計法を確立したことなどが顕著な業績であます。これらの工法は、各地のダム建設時に適用されました。
1942年 - 京都帝国大学農学部を卒業。
1959年 - 京都大学教授に就任。
1979年 - 京都大学総長に就任。
1986年 - 日本学術振興会会長に就任。
1989年 - 日本学士院会員に選出されます。
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1919年5月4日
戸沢 政方(とざわ・まさたか)
政治家
神奈川県
1919年5月9日
中村 誠(なかむら・まこと)
グラフィックデザイナー
岩手県
中村 誠 (なかむら まこと、1952年6月20日 - ) は、宮崎県出身の空手家で、国際空手道連盟極真会館関西地区本部長兼兵庫支部長。極真空手七段。
極真空手の最高峰『全世界空手道選手権大会』を2連覇した“極真会館の大物”であます。
兵庫支部長就任後は、兵庫県内に数多くの道場を開設し、西山芳隆(大阪西支部長)、橋爪秀彦(北大阪支部長)、高尾正紀(大阪東支部長)、田ケ原正文(大阪なみはや支部長)ら全世界大会の日本代表選手をはじめ、各種大会での優勝者や上位入賞者といった数多くの弟子を育てています。
中村は松井章圭の館長就任後、日本代表選手団監督として副監督の川畑幸一とともに松井極真を支え、名指導者ぶりを発揮しています。
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1919年5月10日
千葉 茂(ちば・しげる)
野球
愛媛県
千葉 茂(ちば しげる、1919年5月10日 - 2002年12月9日)は、愛媛県西条市出身。昭和初期から中期(1930年代後半-1960年代前半)のプロ野球選手・プロ野球監督。右投げ右打ち。ポジションは二塁手。戦後中日ドラゴンズ選手を経てセントラル・リーグ審判となった千葉英二は実弟。
愛媛県立松山商業高等学校 愛媛県立松山商業学校から1938年に読売ジャイアンツ 東京巨人軍に入団し、1年目から二塁手のレギュラーとなます。以降、川上哲治、青田昇らと巨人の第2期黄金時代を築き上げます。守備範囲の広い華麗な二塁守備で知られ、一塁手 一塁を守っていた川上の守備範囲が狭かったため「千葉一二塁手」とも呼ばれました。送球の際は相手を見ずに投げるなど守備における動作は抜群で、戦前の名二塁手苅田久徳の系譜を継ぐ選手として名をはせました。
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1919年5月10日
ダニエル=ベル(Daniel Bell)
社会学者
アメリカ
1919年5月12日
山本 英一郎(やまもと・えいいちろう)
野球
岡山県
山本英一郎(やまもと えいいちろう 1919年5月12日~2006年5月26日)は、日本のアマチュア野球組織に携わった人物であます。
岡山県出身。台北第一中、慶応義塾大学 慶応大を卒業後、社会人野球のカネボウ 鐘淵紡績(カネボウ 鐘紡、現在は廃部)でプレー(いずれも外野手)。その後アマチュアの審判員や解説者を経て、1964年に社会人野球協会(現日本野球連盟 (社会人野球) 日本野球連盟)へ。
山本は野球の国際化を自らのライフワークとしており、国際野球連盟(IBAF)の日本代表として派遣されるたびに、野球をオリンピックの競技として世界に普及すべきであるとの持論を繰り返し主張、また、IOC総会が開かれるたびにIBAFの一員としてロビー活動に精力的に取り組んだ。その結果、IBAF加盟国は100を超え、1984年のロサンゼルスオリンピック (1984年) ロサンゼルスオリンピックで野球は公開競技として採用され、1992年のバルセロナオリンピックにおいては、正式競技として採用されました。このとき山本は、国内で選手派遣のばらつきがあってはならないとして、国内のアマチュア野球の団体を統括する組織として全日本アマチュア野球連盟を発足させました。
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1919年5月14日
ポール=アイズピリ(Paul Aizpiri)
画家
フランス
1919年5月19日
小野 光一(おの・こういち)
ゴルフ
旧・中国
1919年5月20日
大岩山 大五郎(おおいわざん・だいごろう)
相撲
東京都
1919年5月20日
ベルナール=カトラン(Bernard Cathelin)
画家
フランス
1919年5月20日
堀内 末男(ほりうち・すえお)
経営者
静岡県
1919年5月26日
杉山 龍丸(すぎやま・たつまる)
緑化運動家
福岡県
杉山龍丸(すぎやま たつまる、1919年(大正8年)5月26日 - 1987年(昭和62年)9月20日)は、インドの緑の父(Green Father)と呼ばれる人物であます。インドの政府や個人の協力を得てインドの各地にあった砂漠地帯や土砂崩壊の地域を緑化したが、日本の政府や企業などからは理解や協力が得られず、日本ではあまり知られていない。
なお、父親は作家の夢野久作であます。代々伝わった三万坪の農地を売り緑化の費用にあてました。
参照:砂漠緑化
著書:「砂漠緑地化に挑む」杉山龍丸著 葦書房 - 死の2年前の論文を含む、緑化のノウハウをまとめています。
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1919年5月27日
梅本 純正(うめもと・よしまさ)
経営者
大阪府
1919年5月30日
夏原 平次郎(なつはら・へいじろう)
経営者
滋賀県
夏原 平次郎(なつはら へいじろう、1919年5月30日-)は、日本流通産業会長、平和堂代表取締役会長であり、平和堂の創業者で元社長でもあます。彦根市の名誉市民に選ばれています。
日本の実業家 なつはらへいしろう
1919年生 なつはらへいしろう
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1919年6月6日
ピーター=キャリントン(Peter Alexander Carrington)
政治家
イギリス
1919年6月6日
久松 保夫(ひさまつ・やすお)
俳優
東京都
久松保夫(ひさまつ やすお、1919年6月6日 - 1982年6月15日)は、日本の俳優、声優。元青二プロダクション所属。東京都出身。
1955年から始まったKRテレビ(現TBSテレビ)の連続ドラマ『日真名氏飛び出す』で主役の日真名氏を演じ一躍人気となます。その後はバート・ランカスター、『スタートレック』のスポック(レナード・ニモイ)の声の吹き替えなど声優としても活躍しました。
また、芸能人の生活向上と権利保護の活動にも力を注ぎ、日本放送芸能家協会の設立に尽力しました。
1982年6月15日死去。享年63。初代青二塾塾長を務めました。
『日真名氏飛び出す』(1955年~1962年)(日真名氏)
『日本沈没#ラジオドラマ 日本沈没』(1980年、NHK-FM)(オーストラリア首相)
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1919年6月15日
山本 壮一郎(やまもと・そういちろう)
政治家
大阪府
山本 壮一郎(やまもと そういちろう、大正8年(1919年)6月15日~平成13年(2001年)1月18日)は、宮城県都道府県知事 知事(在任期間、昭和44年(1969年)3月28日~平成元年(1989年)3月27日)。大阪府大阪市天王寺区出身。大阪市立大学学長の山本研二郎は弟であます。
昭和18年(1943年)東京帝国大学法学部政治学科を卒業します。高等文官試験に合格し、同年内務省に入省するが、太平洋戦争激化に伴い、大日本帝国海軍 海軍に志願します。昭和19年(1944年)海軍経理学校を卒業し海軍主計中尉として第二南遣艦隊司令部に配属されます。終戦はボルネオで迎えました。
昭和21年(1946年)復員後、内務省に復帰します。内務省解体後は自治省に移り、宮城県に出向。昭和35年(1960年)宮城県総務部長。昭和40年(1965年)宮城県副知事を務めます。昭和44年(1969年)宮城県知事選挙に立候補し当選。以後当選回数5回、官僚出身者らしい手堅い行政手腕で20年務めます。住民参加型の地方自治の推進を目指しました。この間、昭和48年(1973年)東北自治協議会会長。昭和54年(1979年)地方制度調査会委員。昭和58年(1983年)全国知事会副会長。昭和62年(1987年)財団法人宮城県国際交流協会会長を歴任します。
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1919年6月17日
安川 定男(やすかわ・さだお)
国文学者
福岡県
1919年6月21日
井出 敏彦(いで・としひこ)
政治家
東京都
1919年6月24日
中村 覚之助(なかむら・かくのすけ)
競馬
京都府
1919年6月25日
岩波 雄二郎(いわなみ・ゆうじろう)
出版人、経営者
神奈川県
1919年6月25日
丸谷 金保(まるたに・かねやす)
政治家
北海道
丸谷 金保(まるたに かねやす、1919年6月25日 - )は、北海道池田町 (北海道) 池田町出身の政治家。1942年明治大学専門部卒業。十勝日日新聞の編集長を務める傍ら農民運動に携わり、日本社会党に入党。1957年37歳の若さで池田町長に初当選。北海道で唯一の社会党町長として話題を集め、1977年に参議院選挙に立候補して当選し国政に転出、町長時代同様社会党に属しました。2期12年務めた後、1989年政界から引退。
丸谷金保の池田町長としての最大の業績は、十勝ワインを開発したことであます。生産・加工から販売まですべて地域住民と自治体が主体となって手がけ、外部資本の介入を許さない姿勢を貫いました。十勝ワインの開発への町をあげての取り組みは、今日では一村一品運動の元祖とみなされています。
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1919年6月27日
陳 建民(ちん・けんみん)
料理人
中国
陳 建民(ちん けんみん、 1919年6月27日 - 1990年5月12日)は中国四川省宜賓の生まれで、四川料理の料理人。日本における四川料理の父といわれます。中国系日本人1世であます。
1952年(昭和27年)に黄昌泉と共に観光ビザで来日、同じく四川省出身の陳海倫(戦前上海で高級ホステスをしていたという)の食客(居候)となり、次にまるみや果物店の宮田清一の食客となます。1953年(昭和28年)春に陳海倫の依頼で外務次官の奥村勝蔵に宴席料理を供したのが縁で外務省に外売(出張料理)を始めます。『東文基園』(通称ゲストハウス)で高級料理を出しパーティを開く。洋子夫人と結婚、翌年帰化。1956年(昭和31年)、長男・陳建一 建一誕生。
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1919年6月28日
永野 茂門(ながの・しげと)
政治家
大分県
永野 茂門(ながの しげと、男性、大正11年(1922年)6月28日 - )は、昭和・平成期における日本の政治家。元参議院議員(2期)。元自衛官。大分県出身。
大分県立大分上野丘高等学校 大分中学校、広島陸軍幼年学校、陸軍士官学校予科を経て、昭和16年(1941年)7月に陸軍士官学校を卒業(第55期)し士官 陸軍将校となます。終戦時は陸軍大尉。
戦後、陸上自衛隊に入隊し兵科#通信科 通信科出身ながら陸上幕僚長となます。昭和55年退官(陸将)。
昭和61年(1986年)、第14回参議院議員通常選挙に自由民主党_(日本) 自由民主党から出馬、当選します。
羽田内閣で法務大臣を務めるが、毎日新聞のインタビューで「南京大虐殺はでっち上げだ」と発言し、わずか10日間で更迭されます。
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1919年7月2日
舟橋 和郎(ふなはし・かずお)
脚本家
東京都
舟橋和郎(ふなはし かずお、1919年7月2日 - 2006年1月15日)は、日本の脚本家。兄は小説家の舟橋聖一。
東京都出身。明治大学文学部文芸科を卒業。菊池寛の秘書を経て、1944年、大映企画部に入社。1946年、『彼と彼女は行く』を発表してシナリオライターに転じ、のちフリーとなます。代表作は『きけ、わだつみの声』、『雁の寺』、『兵隊やくざ』シリーズ、『与太郎戦記』シリーズなど。
きけ、わだつみの声(1950年)
くちづけ(1957年)
雁の寺(1962年)
剣(1964年)
続・兵隊やくざ(1965年)
日本の脚本家 ふなはし かすお
1919年生 ふなはし かすお
2006年没 ふなはし かすお
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1919年7月4日
相沢 英之(あいざわ・ひでゆき)
政治家
大分県
相沢 英之(あいざわ ひでゆき、1919年7月4日 -)は昭和、平成期の大蔵省 大蔵官僚、政治家。衆議院議員(9期)。
相沢家は鎌倉時代以来の旧家でありそのルーツは横浜であるが、教員だった父親の赴任地である大分県宇佐市で生まれました。
旧制横浜第一中学校(現・神奈川県立希望ヶ丘高等学校、第一高等学校 (旧制) 第一高等学校(現・東京大学)を経て、1942年9月に東京帝国大学法学部政治学科を卒業し大蔵省入省。主税局勤務となるが陸軍に召集され、陸軍主計少尉となます。戦後、ソビエト連邦 ソ連に抑留されます。1949年に大蔵省に復帰、主に主計局畑を歩む。以後、理財局長、主計局長を歴任し、1973年には大蔵事務次官となます。田中角栄に目をかけられ、田中内閣時代に超大型予算を組むが、狂乱物価の一因になったとされます。1974年6月に退官。
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1919年7月9日
オリン=エッゲン(Olin Eggen)
天文学者
アメリカ
1919年7月10日
改井 秀雄(かい・ひでお)
政治家
富山県
1919年7月15日
稲葉 義男(いなば・よしお)
俳優
千葉県
稲葉義男(いなば よしお、本名:稲葉義久、1920年7月15日 - 1998年4月20日)は日本の俳優。昭和を代表する名優のひとり。千葉県成田市出身。日本大学専門部芸術科(現・芸術学部)卒。
1998年4月20日、心筋梗塞のため東京都杉並区の病院で死去。享年77。
七人の侍(1954年)
ほらふき丹次(1954年)
囚人船(1956年)
三つ首塔(1956年)
純愛物語(1957年)
六人姉妹(1959年)
男と男の生きる街(1962年)
暴力団(1963年)
砂の器(1974年)
続人間革命(1976年)
獄門島(1977年)
八つ墓村(1977年)
水戸黄門(1978年)
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1919年7月18日
山下 俊彦(やました・としひこ)
経営者
大阪府
1919年7月20日
エドモンド=ヒラリー(Edmund Hillary)
登山家
ニュージーランド
1919年7月21日
今井 勇(いまい・いさむ)
政治家
長野県
『今井祐次郎』より : 今井祐次郎(いまい ゆうじろう、天保14年(1843年)? - 慶応4年1月5日 (旧暦) 1月5日(1868年1月29日)?)は、新選組平隊士。今井勇次郎(読み同じ)、今井祐三郎(いまい ゆうざぶろう)とも。
島田魁によれば、信濃国 信州出身。
新選組加入は慶応元年4月27日(1865年5月21日)、土方歳三 土方・伊東甲子太郎 伊東らが江戸で隊士募集を行った際、応募。7番隊に属し上洛。このとき22歳。剣に優れる(近藤芳助 川村三郎書簡)。
慶応2年9月12日(1866年10月20日)、三条制札事件に参戦。
慶応3年6月10日(1867年7月11日)、幕府召抱え時に平隊士。
慶応4年1月、鳥羽・伏見の戦いに参戦、淀藩 淀にて討ち死に(横倉甚五郎)、または江戸引き上げの軍艦「富士山丸」船中にて死亡(御香宮神社 御香宮『戊辰東軍戦死者霊名簿』、今井勇次郎として記載)とされます。また、鳥羽・伏見戦後に八軒家船着場 大阪八軒家の船宿・京屋忠兵衛方にて見た、との証言もある(近藤芳助 川村三郎書簡)。
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1919年7月21日
地崎 宇三郎 〈3代目〉(ちざき・うさぶろう)
実業家、政治家
北海道
1919年7月23日
ジェフリー=バワ(Geoffrey Manning Bawa)
建築家
スリランカ
1919年7月24日
渥美 健夫(あつみ・たけお)
経営者
東京都
渥美健夫(あつみ たけお 1919年7月24日-1993年10月14日)は、日本の実業家、官僚。元鹿島建設(鹿島)名誉会長。
東京府生まれ。東京都立日比谷高等学校 東京府立一中などを経て、1943年、東京帝国大学 東京帝大法学部政治学科卒業。同年、商工省入省。商工省から経済安定本部、新制・通商産業省を経て、1951年、岳父の鹿島守之助に請われ常務として鹿島建設入社。専務、副社長を経て、1966年、社長に就任。1978年、会長に。のちに、相談役、名誉会長。
1991年、アジア・西太平洋建設業協会国際連盟に功績を称えられ、「渥美賞」が設けられました。
「CD現代日本人名録 物故者編1901-2000」
日本の実業家 あつみたけお
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1919年7月24日
伊藤 喜久蔵(いとう・きくぞう)
ジャーナリスト
京都府
1919年7月26日
ジェームズ=ラブロック(James Ephraim Lovelock)
生命科学者
イギリス
1919年7月28日
長洲 一二(ながす・かずじ)
経済学者
東京都
長洲 一二(ながす かずじ、1919年7月28日 - 1999年5月4日)は、政治家、経済学者。専門はマルクス経済学。革新知事として神奈川県知事を5期20年間勤めました。1996年勲一等瑞宝章。
東京都生まれ。1937年日本銀行入行、1939年同退職、1941年横浜高等商業学校(現横浜国立大学)卒業、1944年東京商科大学(現一橋大学)卒業。
1944年三菱重工業入社、同年大日本帝国海軍入隊、少尉等を経て、1945年終戦に伴い東京商科大学特別研究生、1949年横浜国立大学講師、1951年同助教授、1963年同教授、1964年同経済学部長。1975年から1995年まで神奈川県知事を務めました。この間、1959年に安東仁兵衛らとともに雑誌『現代の理論』創刊に参加(同年廃刊)。1964年、第二次『現代の理論』創刊にも関わり主要執筆者のひとりとなった(1989年廃刊)。知事退職後は地方分権推進委員会委員や神奈川県国際交流協会会長、かながわ学術研究交流財団理事長、湘南国際村協会社長等を歴任。1999年肝臓癌で療養中に、脳梗塞で死去、県民葬が行われました。
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1919年8月3日
伊藤 雄之助(いとう・ゆうのすけ)
俳優
東京都
伊藤 雄之助(いとう ゆうのすけ、1919年8月3日 - 1980年3月11日)は、日本の俳優。
東京都生まれ。
歌舞伎の家に生まれ、1932年、『少年諸君』(高田保監督)でデビュー。1946年東宝に入社。退社後、新東宝、綜芸プロなどを経て1954年よりフリーに。『プーさん』(1953年 / 市川崑監督)、『気違い部落』(1957年 / 渋谷実監督)、『ああ爆弾』(1964年 / 岡本喜八監督)などで主演をつとめます。特異な容貌と怪演による個性的なバイプレイヤーとして、時代劇、現代劇ともに出演作も多い。代表作に『巨人と玩具』(1958年 / 増村保造監督)、『侍』(1965年 / 岡本喜八監督)、『しとやかな獣』(1962年 / 川島雄三監督)など。『椿三十郎』(1962年 / 黒澤明)では結末のみの出演ながら、助け出された家老のうだつの上がらぬ風采に若侍たちの早計も宜なるかなと思われた諸兄も多いはず。因みに台詞「乗った人より馬が丸顔」は高杉晋作の狂歌という。晩年も『太陽を盗んだ男』(1980年 / 長谷川和彦監督)でのバスジャックして皇居に突撃しようとする犯人役の熱演が印象深い。
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1919年8月4日
田島 義文(たじま・ぎぶん)
俳優
兵庫県
田島 義文(たじま よしふみ 1919年8月4日- )は、日本の俳優。兵庫県神戸市出身。
日本大学中退。
「ふんどし医者」「どぶろくの辰」などで渋い演技を見せ、中堅として活躍しました。
東宝の怪獣映画・円谷プロのウルトラシリーズなどの特撮作品や、時代劇の悪家老・悪徳商人役でもお馴染み。
レッツゴー!若大将
人間革命
続人間革命
コント55号 人間の大弱点
クレージーのぶちゃむくれ大発見
モスラ対ゴジラ
ゴジラ (1984)
トラック野郎 突撃一番星
野性の証明 etc.
水戸黄門 (テレビドラマ) 水戸黄門(悪徳商人)
ウルトラQ(毎日新報・関デスク)
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1919年8月5日
足立 慶次郎(あだち・けいじろう)
経営者
大阪府
1919年8月8日
森 美秀(もり・よしひで)
政治家
千葉県
森 美秀(もり よしひで、1919年8月8日 - 1988年5月15日)は、日本の政治家、企業家。自由民主党 (日本) 自由民主党の衆議院議員。千葉県勝浦市出身。長男は自由民主党衆議院議員の森英介。
父は森コンツェルンの総帥で衆議院議員の森矗昶。森清 (千葉3区) 森清、森曉、三木武夫夫人の三木睦子 睦子の弟にあたます。
1940年に玉川学園専門部を卒業し、日本冶金工業に入社します。戦後は、東亜精機代表取締役、苫小牧ファーム社長などを歴任。兄・清の急逝で後継者として政界入りし、1969年、第32回衆議院議員総選挙で初当選。以後当選7回。自民党では、園田直派を経て、義兄の三木武夫派-河本敏夫派に所属しました。衆議院大蔵委員長、自民党国会対策副委員長、副幹事長、大蔵省 大蔵政務次官、経済企画庁 経済企画政務次官などを経て、1985年に第2次中曽根内閣第2次改造内閣の環境庁長官として初入閣。
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1919年8月10日
渡辺 剣次(わたなべ・けんじ)
作家
東京都
1919年8月20日
高木 一見(たかぎ・かずみ)
経営者
愛媛県
1919年8月23日
大野 晋(おおの・すすむ)
国語学者
東京都
大野 晋(おおの すすむ、男性、1919年8月23日 - )は、東京都生まれの国語学者。学習院大学名誉教授。東京大学文学部国文学科卒。橋本進吉に師事します。
『岩波古語辞典』の編纂や、日本語のタミル語起源説で知られます。主著は、約43万部を発行した『日本語の起源』や、約180万部を発行した『日本語練習帳』など。
『日本語の起源』(岩波書店、ISBN 4004303400)
『日本語練習帳』(岩波書店、ISBN 4004305969)
『日本語の教室』(岩波書店、ISBN 4004308003)
『日本語の文法を考える』(岩波書店、ISBN 4004200539)
『日本人の神』(新潮社、ISBN 4101036020)
国語学者 おおのすすむ
1919年生 おおのすすむ
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1919年8月27日
八十島 義之助(やそしま・よしのすけ)
鉄道工学者
東京都
1919年8月28日
ゴッドフリー=ハウンズフィールド(Godfrey Hounsfield)
技術者
イギリス
1919年9月1日
金子 精吾(かねこ・せいご)
映画監督
神奈川県
1919年9月1日
脇 信夫(わき・のぶお)
政治家
香川県
1919年9月3日
水田 洋(みずた・ひろし)
経済学者
東京都
水田 洋(みずた ひろし、1919年9月3日 - )は、社会思想史研究者。東京都港区 (東京都) 港区生まれ。アダム・スミス研究の世界的第一人者。1998年12月社会思想史家として初の日本学士院会員に就任。日本尊厳死協会会員。
港区立青南小学校卒、東京府立第一中学校(現東京都立日比谷高等学校)4年修了。府立一中の校風を嫌い、中学四年で東京商科大学(現一橋大学)予科に進学、1941年同大を繰り上げ卒業。1942年東亜研究所入所。戦中は陸軍軍属としてジャワ軍政監部調査室で、農村事情の調査を行う。戦後、捕虜生活を経て、1946年母校東京商科大学に特別研究生として戻ます。指導教授は高島善哉。高島の先輩であり、戦時中の受難によって戦後一橋で圧倒的な影響力があった大塚金之助に嫌われ、一橋大に残れなくなったため北海道大学に就職しようとしたところ、杉本栄一に「田舎者になってしまうぞ」と反対され1949年名古屋大学法経学部助教授に就任。1958年同大経済学部教授。1960年経済学博士。1966年名古屋大経済学部長。1983年名古屋大を定年退官し同大名誉教授。1983年から1994年まで名城大学商学部教授。
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1919年9月5日
丹羽 基二(にわ・もとじ)
作家
栃木県
丹羽 基二(にわ もとじ、1919年9月5日 - 2006年8月7日 )は、在野の苗字研究家。
1919(大8)年栃木県佐野市に生まれ、1944(昭19)年國學院大学国文科を卒業します。卒論のテーマは源氏物語。柳田國男、樋口清之、折口信夫、太田亮らに師事しました。日本家系図学会会長、「地名を守る会」代表、米オリエンタル大学名誉教授、文学博士。 2006年(平18)8月7日、肺炎のため逝去。
幼時、栃木県佐野市にすんでいたころ、隣組の苗字、四十八願(よいなら)に関心を抱き、師事した柳田國男にその苗字について質問をしたところ「丹羽君、苗字の研究をしなさい」と言われ、苗字の研究を開始します。在野の研究家として苗字だけにとどまらず、家紋、墓、仏足石、紋様などの研究も行う。また、僻地への旅行を趣味としていて、その方面の著作もあます。
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1919年9月14日
村上 七郎(むらかみ・しちろう)
経営者
東京都
1919年9月15日
ファウスト=コッピ(Fausto Coppi)
自転車レーサー
イタリア
1919年9月16日
ローレンス=ピーター(Laurence J. Peter)
教育学者
アメリカ
1919年9月18日
浜田 寅彦(はまだ・とらひこ)
俳優
高知県
1919年9月19日
加藤 周一(かとう・しゅういち)
評論家
東京都
加藤 周一(かとう しゅういち、1919年9月19日 - )は評論家、作家。東京大学文学部、エール大学講師、ベルリン自由大学、ブリティッシュ・コロンビア大学教授、立命館大学国際関係学部客員教授、立命館大学国際平和ミュージアム元館長。東京都生まれ。博士 (医学) 医学博士。専門は血液学。九条の会の呼びかけ人の一人。
旧制府立一中(現東京都立日比谷高等学校)、旧制第一高等学校 (旧制) 第一高等学校を経て、1943年東京大学医学部卒業。学生時代から文学に関心を寄せ、卒業後、医業の傍ら「マチネ・ポエティク」の一員として韻律を持った日本語詩を発表、他に文学に関する評論、小説を執筆。1951年からは、医学留学生としてフランスに渡り、主に文明批評を発表。以後、国内外の大学で教鞭をとりながら執筆活動を続けています。「雑種文化―日本の小さな希望」で名を知られ、「読書術」はベストセラーになます。1980年に『日本文学史序説』上下で大佛次郎賞、1993年に朝日賞をそれぞれ受賞。現在の妻は評論家の矢島翠。終戦直後、被爆の実態調査のために広島に行き、原爆の被害を実際に見聞しています。
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1919年9月21日
伊藤 正己(いとう・まさみ)
法学者
兵庫県
伊藤 正己(いとう まさみ、1919年9月21日-)は、兵庫県生まれの英米法学者、憲法学者。元最高裁判所判事、東京大学名誉教授、日本学士院会員(第2分科(法律学・政治学))。弟に伊藤正元住友商事社長。
最高裁判事としては、数々の補足意見や反対意見を記しました。
1943年 東京大学法学部卒業
1957年 東京大学教授(1970年11月1日-1972年10月31日 東京大学法学部長併任)
1980年1月19日 最高裁判所判事に就任(第三小法廷)
1989年9月20日 最高裁判所判事を定年退官
1990年1月1日 日本育英会会長に就任
1993年1月1日 日本育英会会長に再任
1993年4月29日 勲一等旭日大綬章受章
1995年12月31日 日本育英会会長任期満了
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1919年9月27日
ジョニー=ペスキー(Johnny Pesky)
野球
アメリカ
1919年9月29日
竹本 正男(たけもと・まさお)
体操
島根県
1919年9月29日
中川 順(なかがわ・すなお)
経営者
広島県
中川順子(なかがわじゅんこ)は日本放送協会 NHK「おかあさんといっしょ」の5代目うたのおねえさんであます。1964年10月から1967年3月までつとめました。
のりもののうた~ほんもののおとがいっぱい~(1987年4月21日)
日本の歌手 なかかわしゆんこ
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1919年10月4日
竹内 潔(たけうち・きよし)
政治家
東京都
1919年10月6日
園田 清充(そのだ・きよみつ)
政治家
熊本県
1919年10月7日
山下 徳夫(やました・とくお)
政治家
佐賀県
山下徳夫(やました とくお、1919年10月7日-)は、日本の政治家、衆議院議員(自由民主党)。佐賀県出身。
福岡中学校(現・福岡県立福岡高等学校)卒業後、専修大学法学部卒業。佐賀県議会議長を経て、1969年、旧佐賀全県区から衆議院議員選挙に立候補し、初当選。連続当選10回。自民党内では最小派閥の番町政策研究所 三木→河本派に所属。第2次中曽根内閣の運輸大臣、第3次中曽根内閣の総務庁長官、第1次海部内閣の内閣官房長官、宮澤内閣の厚生大臣などを歴任しました。最小派閥ながら閣僚ポストに恵まれたのは、金丸信と親交が深く、経世会との連絡役を務めていたからという側面もでした。2000年、政界引退。
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1919年10月8日
山下 菊二(やました・きくじ)
洋画家
徳島県
山下菊二は日本の画家。
大正8年徳島県に生まれます。昭和13年、上京して、福沢絵画研究所に入ます。昭和24年、美術文化協会の会員になるが、翌年、退会。以後、多くの会を結成、あるいは参加。昭和27年、小河内村へ行き、ダム反対闘争。以後、松川裁判、安保闘争、狭山裁判などに加担。昭和50年、筋萎縮症と判断されます。昭和61年、死去。権力や差別、天皇制や庶民意識の問題と向かい合い、渾沌たる現実を超現実主義の方法で戯画化したり、探訪絵画を創案して、事件を紙芝居化するなど、その絵画は、戦後史の証言ともなる重要なものであます。代表作に《あけぼの村物語》(昭和28)《見られぬ祭》(昭和40)《葬列》(昭和42)《転化期》(昭和33)など。
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1919年10月9日
滝 正男(たき・まさお)
野球
愛知県
1919年10月10日
大内 淳義(おおうち・あつよし)
電子技術者、経営者
東京都
1919年10月11日
飯島 滋弥(いいじま・しげや)
野球
千葉県
飯島 滋弥(いいじま しげや、1918年10月11日 - 1970年8月9日)は、昭和中期から後期(1940年代後半~1960年代)のプロ野球選手・プロ野球監督。千葉県香取郡吉田村(現・匝瑳市吉田)出身。
旧制千葉県立千葉中学校(現·千葉県立千葉高等学校)から旧制慶應義塾大学に進学。日立航空を経て1946年に北海道日本ハムファイターズ セネタースに入団。1年目から打率.312(7位)、ホームラン 本塁打12本(2位)の成績をあげます。しかし翌年以降結果が出ず、フロントとの確執もあって1949年に大映ユニオンズ 大映スターズに移籍。この年打率.293、本塁打25本を放ち主軸に返り咲く。
1951年10月5日対オリックス・バファローズ 阪急戦(大須球場)では1回表に満塁ホームラン、7回表に満塁ホームランと3ランホームランの1イニング2本塁打の計3本の本塁打を放ち、1試合2満塁本塁打、1試合11打点、1イニング7打点の日本記録を打ち立てました。1952年に打率.336で首位打者のタイトルを獲得。1955年に福岡ソフトバンクホークス 南海に移籍。同年引退しました。
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1919年10月18日
ピエール=トルドー(Pierre Trudeau)
政治家
カナダ
1919年10月19日
樫原 一郎(かしはら・いちろう)
作家
佐賀県
1919年10月21日
金沢 忠雄(かなざわ・ただお)
政治家
山形県
1919年10月21日
新村 源雄(しんむら・げんゆう)
政治家
富山県
新村 源雄(しんむら げんゆう、1919年10月21日 - 1995年3月22日)は日本の政治家。上士幌町名誉町民。
富山県婦負郡杉原村(のちの八尾町、現富山市)出身。杉原尋常高等小学校卒業。1933年北海道河東郡上士幌町に移住し開拓に従事。戦後農民運動のリーダーとなり、上士幌町議を2期、十勝支庁 十勝農業協同組合監事を歴任しました。1954年から1972年まで上士幌町農協組合長を務め、その間1967年から北海道議を3期務めました。
1979年美濃政市の後継者として旧北海道5区から日本社会党公認で総選挙に出馬し初当選。翌年の総選挙では落選したものの、1983年返り咲いました。1986年の総選挙で落選。1991年には社会党北海道本部副委員長も辞任して政界引退。1994年に勲四等旭日小綬章を受章したが、翌年胃癌のため75歳で死去。
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1919年10月21日
芹沢 長介(せりざわ・ちょうすけ)
考古学者
静岡県
芹沢 長介(せりざわ ちょうすけ 1919年10月21日 - 2006年3月16日)は静岡県静岡市出身の考古学者。東北大学名誉教授。日本の旧石器時代、縄文時代研究の第一人者。日本各地の旧石器時代遺跡を調査し、旧石器時代の編年研究をでした。
父は人間国宝で染色家の芹沢銈介。1989年からは東北福祉大学内の芹沢銈介美術工芸館館長を務めていました。(仙台市青葉区、1989年開館)
明治大学専門部地理歴史学科卒業。明治大学大学院中途退学。同大教授の杉原荘介と対立し、1963年東北大学へ移籍。その後、東北大学助教授、東北大学教授を務めます。1984年からは東北福祉大学教授、名誉教授を歴任。
2006年3月16日、胸部大動脈瘤破裂のため仙台市の病院で死去、享年86。
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1919年10月24日
森中 守義(もりなか・もりよし)
政治家
熊本県
1919年10月26日
篠原 三代平(しのはら・みよへい)
経済学者
富山県
篠原三代平(しのはら みよへい、1919年10月26日 - )は経済学者。1988年日本学士院賞受賞、1998年文化功労者。1989年勲二等瑞宝章。一橋大学名誉教授、東京国際大学名誉教授。
富山県高岡市生まれ。高岡高等商業学校(現富山大学)を経て、1942年 東京商科大学(現一橋大学)卒。
日本経済学会会長、景気循環学会会長、財団法人アジア・クラブ理事長、統計研究会理事長、アジア経済研究所会長、財団法人全国統計協会連合会大内賞委員会委員長等を歴任。
経済企画庁参与、経済企画庁景気動向指数研究会座長、経済企画庁景気基準日付検討委員会委員長、日本道路公団経営改善委員会委員長、1992年物価安定政策会議議長、、総理府統計審議会会長、対外経済問題諮問委員会委員等を歴任。
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1919年10月30日
川上 紀一(かわかみ・きいち)
政治家
千葉県
1919年11月1日
佐治 敬三(さじ・けいぞう)
経営者
大阪府
佐治 敬三(さじ けいぞう、1919年11月1日-1999年11月3日)は、昭和、平成期の日本の実業家。元サントリー会長。
1919年11月1日 サントリー創業者の鳥井信治郎の次男として大阪で誕生。
:小学校の時に母方の縁者と養子縁組をして「佐治」姓となったが、そのまま大阪の実父母のもとで暮らしたという。
1942年4月 大阪帝国大学理学部卒業。
1945年 サントリーの前身である寿屋に入社
1961年 寿屋代表取締役会長に就任
1963年 寿屋からサントリーに社名を変更
1971年 関西公共広告機構を設立(現在の公共広告機構)
1985年 大阪商工会議所会頭に就任
1989年 勲一等瑞宝賞を受賞
1990年 サントリー代表取締役会長に就任
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1919年11月3日
増位山 大志郎 〈初代〉(ますいやま・だいしろう)
相撲
兵庫県
1919年11月4日
マーティン=バルサム(Martin Balsam)
俳優
アメリカ
1919年11月10日
ミハイル=カラシニコフ(Mikhail Kalashnikov)
銃器設計者
ロシア
1919年11月20日
真弓田 一夫(まゆみだ・かずお)
俳優
長野県
1919年11月21日
斎藤 昌美(さいとう・まさみ)
果樹園芸家
青森県
1919年11月21日
ゲルト=フレドリクソン(Gert Fredriksson)
カヌー
スウェーデン
1919年11月25日
赤澤 璋一(あかざわ・しょういち)
通産官僚
岡山県
1919年11月25日
宇治 達郎(うじ・たつお)
医師
埼玉県
1919年11月26日
深見 安博(ふかみ・やすひろ)
野球
兵庫県
深見 安博(ふかみ やすひろ、1919年11月26日 - 1972年4月9日)は、昭和中期(1950年代)のプロ野球選手であます。現役時代のポジションは外野手。引退後は西武ライオンズ 西鉄、広島東洋カープ 広島でコーチを務めました。
報徳商業(現・報徳学園)ではエースで4番を打ち、中央大学を経て1950年に西鉄に入団し、打率.279、22本塁打をマークしました。1952年開幕直後に大下弘選手との2対1の交換トレードで当時西鉄の主力投手だった緒方俊明とともに北海道日本ハムファイターズ 東急に移籍しました。この年25本塁打を打ち本塁打王に輝いたが、これは史上唯一の2球団にまたがる本塁打王(西鉄で2本塁打、東急で23本塁打を記録)であり、未だ深見以外に達成したものは誰一人としていない。その後高橋ユニオンズ 高橋、福岡ソフトバンクホークス 南海とチームを転々としたが全盛期の頃のパワーは無く、代打としての出番が多くでした。引退後は西鉄、広島のコーチ。1972年4月9日死去。享年52。
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1919年11月30日
野呂 恭一(のろ・きょういち)
政治家
三重県
1919年12月1日
中尾 碩志(なかお・ひろし)
野球
三重県
中尾 碩志(なかお ひろし、1919年12月1日 - 1977年12月9日)は、三重県伊勢市出身のプロ野球選手(投手)。左投げ左打ち。旧名「輝三(てるぞう)」(プロ初年から1947年まで)。
典型的な剛球ノーコン投手で、1度目のノーヒットノーランの際は四球10個、2度目も8個の四球を出しながら安打 ヒットを許さずシャットアウトしています。戦後は制球力と球種 (野球)#変化球 ドロップを駆使した技巧派に転向。巧みな投球で息長く活躍しました。なお出身地、出身中学、そして在籍チームが沢村栄治と同じであます。投手は先発完投こそが華と言うのを強く自負しており、投手分業制を掲げる近藤貞雄との論争の数々は多くの人に知られています。
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1919年12月5日
宮崎 義一(みやざき・よしかず)
経済学者
大阪府
宮崎 義一(みやざき よしかず、1919年12月5日 - 1998年5月20日)は大阪府大阪市生まれの男性経済学者。日本学士院会員(1993年12月 - 1998年)。京都大学名誉教授。経済政策に通じ、日本経済の分析をでした。日本学術会議第14期会員。
横浜国立大学経済学部長、京都大学経済学研究所教授(1975年4月 - 1983年4月、1980年所長)、東京経済大学教授、明治学院大学教授等を歴任。大阪大倉商業学校(現関西大倉学園)卒、1943年東京商科大学(現一橋大学)卒。同大で杉本栄一、都留重人らの指導を受けました。大学卒業後海軍士官となり、1946年12月横浜高商(現横浜国立大)に就職。
『複合不況』(中公新書)はベストセラーになり、1992年の新語・流行語大賞にもでした。『世界経済をどう見るか』で毎日出版文化賞。論文「過当競争の論理と現実」(1962年)でエコノミスト賞を受賞。
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1919年12月9日
ウィリアム=リプスコム(William Lipscomb)
化学者
アメリカ
1919年12月10日
アレキサンダー=カレッジ(Alexander Courage)
作曲家
アメリカ
1919年12月15日
アケ=ザイフェルト(Ake Seyffarth)
スピードスケート
スウェーデン
1919年12月27日
チャールズ=スウィーニー(Charles Sweeney)
軍人
アメリカ
1919年12月28日
茂山 千作 〈4代目〉(しげやま・せんさく)
狂言師
京都府
1919年12月30日
西村 進一(にしむら・しんいち)
野球
京都府
1919年12月30日
ラシード=カラミ(Rashid Karami)
政治家
レバノン