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1914年生まれ男性の風水 運勢・方角
1914年生まれの男性 ()
1914年生まれの有名人
1914年1月1日
市原 晃(いちはら・あきら)
経営者
東京都
1914年1月1日
河野 正(かわの・ただし)
政治家
福岡県
河野 正徳(こうの しょうとく)は、白い巨塔の登場人物で、架空の人物。弁護士。大阪弁護士会会長。大阪市内で法律事務所を経営します。
胃癌の肺転移による癌性肋膜炎により死亡した佐々木商店代表取締役・佐々木庸平の遺族が、浪速大学第一外科・財前五郎を訴えた裁判で、被告側の代理人を引き受けます。老練な策士で、第一審では巧みに柳原に責任を転嫁するなど財前側を勝訴に導く。しかし、控訴審では汚職事件の弁護を引き受けた関係で、少壮の国平 (白い巨塔) 国平弁護士が主に手がけるかたちとでした。審理では徐々に財前側に不利な証拠、証人が登場し、最終的には受持医・柳原弘の証言が決め手となり、結果的には財前側の敗訴とでした。
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1914年1月1日
佐治 賢使(さじ・ただし)
漆芸家
岐阜県
1914年1月3日
植村 謙二郎(うえむら・けんじろう)
俳優
東京都
1914年1月5日
川面 稜一(かわも・りょういち)
日本画家
京都府
1914年1月5日
ジョージ=リーブス(George Reeves)
俳優
アメリカ
1914年1月17日
川本 泰三(かわもと・たいぞう)
サッカー
愛知県
名前=川本泰三
本名=
愛称=シュートの名人
カタカナ表記=カワモト タイゾウ
アルファベット表記=KAWAMOTO Taizo
原語名=
原語表記=
誕生日=1914年1月17日
出身地=愛知県瀬戸市
身長=
体重=
血液型=
所属チーム名=
ポジション=フォワード FW
背番号=
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1914年1月18日
渕上 栄一(ふちがみ・えいいち)
経営者
福岡県
1914年1月23日
京須 行男(きょうす・ゆきお)
将棋
千葉県
1914年1月28日
菊島 隆三(きくしま・りゅうぞう)
脚本家
山梨県
1914年1月28日
三木 鶏郎(みき・とりろう)
作曲家
東京都
三木 鶏郎(みき とりろう、1914年1月28日 - 1994年10月7日)は、東京府東京市麹町 麹町区(現・東京都千代田区)出身の大正前期から平成前期まで活躍していた作詞家、作曲家、放送作家、構成作家、演出家。本名は繁田裕司(しげた ひろし)。ジャズ評論家の三木鮎郎は実弟。「三木トリロー」名義での活動歴もあます。
活動に際しキノ・トール、能見正比古、永六輔、神吉拓郎、野坂昭如らとトリローグループを結成(また作曲家陣として神津善行、いずみたく、桜井順などを集める)。門下からは歌手(楠トシエ、中村メイコなど)や俳優(逗子とんぼ、なべおさみ、左とん平など)を多数世に送り出しました。
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1914年1月29日
深沢 七郎(ふかざわ・しちろう)
作家
山梨県
深沢 七郎 (ふかさわ しちろう、1914年1月29日 - 1987年8月18日) は、日本の小説家。
山梨県東八代郡石和町(現笛吹市)に生まれます。中学の頃からギターに熱中し、ギタリストとなます。1954年、「桃原青二」の芸名で日劇ミュージックホールに出演しました。
1955年に姥捨山をテーマにした「楢山節考」を中央公論新人賞に応募、第1回受賞作とでした。三島由紀夫らが激賞して、ベストセラーとなり、二度にわたって映画化された(1958年木下恵介監督、1983年今村昌平監督)。戦国時代 (日本) 戦国時代の甲斐国 甲州の農民を描いた『笛吹川』も評判にでした。
1960年に『中央公論』に発表した「風流夢譚」では、皇族が処刑されるシーンを描いたことから世論の非難を浴び、深沢は各地を放浪する羽目にでした。翌年には中央公論社長宅が右翼に襲撃される嶋中事件が起こった(風流夢譚事件)。放浪中も『放浪の手記』などを執筆。1965年、埼玉県菖蒲町に落ち着き、上大崎の見沼代用水近くにラブミー農場を開き、以後そこに住んだ。
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1914年2月3日
石川 利光(いしかわ・としみつ)
作家
大分県
石川 利光(いしかわ としみつ)は日本の尺八(琴古流)演奏家。石の会主催。オーラJ(オーケストラアジア・ジャパンアンサンブル)メンバー。大阪邦楽ゾリステン代表。国際尺八研修館常任講師
大阪府出身。1961年(昭和36年)1月8日生まれ。立命館大学産業社会学部卒業。神戸市在住。
兄・石川憲弘(箏演奏家)に勧められ立命館大学の「邦楽部」に入部。ここで初めて尺八に出でした。その後、田嶋直士、横山勝也に師事し、本格的に尺八修行を積んだ。NHK邦楽技能者育成会を首席で修了(第37期)し、同邦楽オーディションにも合格。
最近はソロ活動に加え、米村鈴笙、岡田道明らと尺八三本会『風童』を結成。国内でのコンサート活動に加え、アメリカ合衆国 アメリカ、スイス、インド、ポーランド、オーストリア、ベルギー、オーストラリア各国で公演するなど世界的な活動にも積極的に取り組んでいます。
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1914年2月5日
ウィリアム=バロウズ(William S. Burroughs)
作家
アメリカ
1914年2月5日
アラン=ホジキン(Alan Hodgkin)
医学者
イギリス
1914年2月5日
山田 伝(やまだ・でん)
野球
アメリカ
1914年2月8日
金丸 三郎(かねまる・さぶろう)
政治家
鹿児島県
金丸 三郎(かねまる さぶろう、大正3年(1914年)2月8日 - )は、日本の官僚、政治家。鹿児島県知事、自由民主党参議院議員、参議院協会会長、財団法人井上育英会顧問を務めます。
鹿児島県出身。東京帝国大学(現東京大学)法学部卒業後の昭和13年(1938年)、内務省入省。鹿児島県副知事、自治省 自治事務次官を経て、昭和42年(1967年)4月から昭和52年(1977年)3月に鎌田要人に交代するまで連続3期鹿児島県知事の任にでした。その後国政に場を変え昭和52年(1977年)、鹿児島地方区から参院選に初当選。平成元年(1989年)に引退するまで当選2回。昭和63年(1988年)12月27日から平成元年(1989年)6月3日まで竹下改造内閣 竹下内閣の総務庁長官を務めました。
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1914年2月11日
斎藤 十一(さいとう・とういち)
編集者
東京都
斎藤十一(さいとう じゅういち 1914年2月11日 - 2000年12月28日)は昭和期のカリスマ的な編集者。新潮社の天皇とも怪物とも呼ばれ、会長佐藤亮一の参謀として同社で権力を振でした。1960年から『週刊新潮』に名物コラム「東京情報」を長期連載していた自称外人記者ヤン・デンマンは、斎藤の変名と考えられています。
北海道のガス会社に勤務するサラリーマンの息子として、北海道忍路郡(おしょろぐん)塩谷村(しおやむら=現在の小樽市)に生まれ、父の転職に伴って2~3歳から東京市大森区に育つ。1926年、旧制麻布中学校入学。在学中の成績は中位で、軽度の吃音に悩む、おとなしく目立たない生徒だった。1931年、麻布中学校卒業。海軍兵学校を受験したが体格検査ではねられる(のちに徴兵検査でも肺浸潤が発見されたため、兵役を免れた)。次いで旧制第一高等学校受験に失敗したため、早稲田第一高等学院理科に進むも、一高受験失敗の衝撃から休学して家出し、南総の寺で1年間修行。のち、ひとのみち教団(現在のPL教団)信者の父によって家に連れ戻され、十一自身も同教団に入信。
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1914年2月11日
長谷川 武彦(はせがわ・たけひこ)
経営者
兵庫県
1914年2月13日
倉金 章介(くらかね・しょうすけ)
漫画家
山梨県
倉金 章介 (くらかね しょうすけ、男性、1914年2月13日 - 1973年8月25日) は、漫画家。山梨県甲府市出身。本名は、倉金 虎雄。田河水泡門下。
多くの作品があるが、何度も映画化やテレビドラマ化され、アニメ化もされている『あんみつ姫』の原作者としてとりわけ広く知られています。
また、もう一つの代表作『てんてん娘』も、1956年に宮城まり子主演で映画化、1984年には原真祐美主演でテレビドラマ化されています。
漫画家 くらかねしょうすけ
Shosuke Kurakane
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1914年2月13日
板垣 武四(いたがき・たけし)
政治家
北海道
1914年2月18日
蔦谷 喜一(つたや・きいち)
画家
東京都
蔦谷喜一(つたや・きいち 1914年-2005年2月24日 東京都出身)は画家・塗り絵作家。
京橋#東京 京橋の紙問屋の9人きょうだいの7番目に生まれます。東京市立京橋商業学校を中退し、画家を志す。中でも戦後から出版された「きいちのぬりえ」シリーズの塗り絵本は、当時の少女たちから絶大なる人気を誇り、2005年に老衰で没すまで(享年91)続刊され続け、今日も少女から中高年の特に女性の人気を集めているベストセラーとでした。
日本の画家 つたやきいち
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1914年2月18日
和沢 昌治(わざわ・しょうじ)
俳優
石川県
1914年2月21日
上林 猷夫(かんばやし・みちお)
詩人
北海道
1914年2月22日
武川 寛海(たけかわ・ひろみ)
音楽評論家
東京都
1914年2月22日
レナート=ダルベッコ(Renato Dulbecco)
医学者
イタリア→アメリカ
1914年2月23日
石山 正三(いしやま・しょうぞう)
ロシア文学者
東京都
1914年2月23日
遠山 茂樹(とおやま・しげき)
歴史学者(日本史)
東京都
遠山 茂樹(とおやま しげき、1914年 - )は日本の歴史学者。専門は日本近代史。東京都出身。『遠山茂樹著作集』(全8巻、岩波書店刊)があます。
東京帝国大学国史学科卒業。戦前は文部省維新史料編纂事務局、東京帝国大学史料編纂所を歴任。戦後は横浜市立大学教授、専修大学教授、横浜開港資料館初代館長を歴任しました。歴史学研究会に参加し唯物史観の代表的学者として活躍。1955年出版の共著『昭和史』はベストセラーになるがその記述を巡り亀井勝一郎と有名な「昭和史論争」に発展しました。
『昭和史』 (岩波書店、1955年) 今井清一・井上清との共著
『戦後の歴史学と歴史意識』 (岩波書店、1968年)
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1914年2月23日
長谷川 正三(はせがわ・しょうぞう)
政治家
東京都
1914年2月26日
ヴィトルド=ロヴィツキ(Witold Rowicki)
指揮者
ポーランド
1914年3月8日
松田 由雄(まつだ・よしお)
経営者
三重県
1914年3月10日
チャンドラー=ハーパー(Chandler Harper)
ゴルフ
アメリカ
1914年3月11日
今泉 吉典(いまいずみ・よしのり)
動物学者
宮城県
1914年3月12日
藤倉 修一(ふじくら・しゅういち)
アナウンサー/NHK
東京都
1914年3月18日
辻 久一(つじ・ひさかず)
脚本家
兵庫県
1914年3月21日
北田 光男(きただ・みつお)
経営者
熊本県
1914年3月22日
カール=マルデン(Karl Malden)
俳優
アメリカ
1914年3月25日
十返 肇(とがえり・はじめ)
評論家
香川県
1914年3月25日
ノーマン=ボーローグ(Norman Ernest Borlaug)
農業学者
アメリカ
1914年3月26日
公文 公(くもん・とおる)
教育者
高知県
公文 公(くもん とおる、男性、1914年3月26日 - 1995年7月25日)は、高知県出身の数学研究者。土佐中学校・高等学校、大阪大学理学部数学科卒業。高等学校数学教師を退職後、1958年に大阪数学研究会(現・日本公文教育研究会)を設立。彼が考案した学習指導法は「公文式」として知られます。公文式学習法が誕生した経緯や彼の考えは「やってみよう」という著書に詳しく書かれています。
日本の数学者 くもんとおる
Toru Kumon
zh:公文公
es:Toru Kumon
pt:Toru Kumon
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1914年3月28日
エドムンド=マスキー(Edmund Muskie)
政治家
アメリカ
1914年3月31日
オクタビオ=パス(Octavio Paz)
詩人
メキシコ
1914年4月1日
山茶花 究(さざんか・きゅう)
俳優
大阪府
1914年4月2日
アレック=ギネス(Alec Guinness)
俳優
イギリス
1914年4月4日
マディ=ウォーターズ(Muddy Waters)
ミュージシャン
アメリカ
1914年4月7日
坪内 道則(つぼうち・みちのり)
野球
大阪府
『坪内道典』より : 坪内 道典(つぼうち みちのり、 1914年4月7日 - 1997年9月16日)は、愛媛県伊予郡郡中町生まれ、大阪市天王寺区出身。昭和初期から後期(1930年代後半-1950年代前半)のプロ野球選手(外野手)・プロ野球監督。1936年から1948年は登録名を-道則としました。
松山商、天王寺商を経て立教大学を中退。1936年に松竹ロビンス 大東京軍の結成に参加。1943年から1944年には選手兼任監督 選手兼監督を務めました。住職であった弟が出征し、その代わりを務めたため戦場には赴かなでした。1946年に大映ユニオンズ ゴールドスターでプロ球界に復帰。1948年には日本プロ野球初の1000試合出場を達成。1949年に中日ドラゴンズ 中日に移籍。1951年限りで現役引退。監督は1953年まで務めました。
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1914年4月10日
近衛 十四郎(このえ・じゅうしろう)
俳優
新潟県
近衛 十四郎(このえ じゅうしろう、1914年4月10日 - 1977年5月24日)は、戦前から戦後にかけて活躍した時代劇俳優。通常より長い刀を使用し、かつ随一といわれる速い剣捌きで迫力ある殺陣を演じ、時代劇ファンを魅了しました。
新潟県長岡市生まれ。 本名、目黒寅彦(めぐろ・とらひこ)。松方弘樹(長男)、目黒祐樹(次男)と二人の息子がともに俳優となったことでも知られます。
市川右太衛門プロダクションに研究生として入団し、日活を経て亜細亜映画『叫ぶ荒神山』で主役デビューを飾ます。 その後、第一映画社から大都映画社に移って剣劇スターとしての名声を打ち立てます。1942年7月23日、長男・弘樹誕生。
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1914年4月14日
吉田 正男(よしだ・まさお)
野球
愛知県
吉田 正男(よしだ まさお、大正3年(1914年)4月14日-平成8年(1996年)5月23日)は、昭和初期に活躍した高校野球 中等学校野球、大学野球及び社会人野球の選手。昭和6年(1931年)から昭和8年(1933年)にかけて、全国高等学校野球選手権大会 夏の甲子園大会で3連覇の偉業を達成した中京商業学校(現・中京大学附属中京高等学校)のエース。春夏合わせた甲子園球場 甲子園での勝利数23は、空前絶後の大記録であます。
愛知県一宮市出身。昭和4年(1929年)中京商業に入学し、野球部に所属しました。当時、中京商業野球部は技術コーチとして明治大学野球部監督岡田源三郎を招聘していたが、この岡田の指導によって、徹底的に投球フォームを矯正されました。後年の鉄腕ぶりは、この岡田の指導が大きな基礎となっているものと思われます。
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1914年4月17日
神谷 尚男(かみや・ひさお)
検察官
岐阜県
1914年4月20日
田丸 秀治(たまる・ひではる)
経営者
鹿児島県
1914年4月25日
鈴木 源良(すずき・もとよし)
経営者
群馬県
1914年4月25日
クロード=モーリヤック(Claude Mauriac)
作家
フランス
1914年4月28日
館野 守男(たての・もりお)
アナウンサー/NHK
茨城県
1914年4月28日
藤井 精一(ふじい・せいいち)
政治家
群馬県
藤井 精一(ふじい せいいち、1914年4月28日 - 1988年1月11日)は、日本の政治家。群馬県出身。前橋市長を務めました。
1978年、前橋市長選挙に出馬。初当選
1982年、前橋市長選挙に出馬。当選(2期目)
1986年、前橋市長選挙に出馬。当選(3期目)
1988年、前橋市長を退く
全国市長会財政分科会委員を務めた
前橋市長在職中の1979年、かねてから危険性が指摘されてきたインフルエンザワクチンの集団接種中止の決断を下しました。この決断は無駄な危険から子供たちを守ったとして高く評価されている
「群馬文化」201号(1985)石川薫顧問追悼号
「群馬文化」210号(1987)山田武麿先生追悼号
小寺弘之
小渕恵三
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1914年5月2日
畑 太郎(はた・たろう)
経営者
長野県
1914年5月4日
前田山 英五郎(まえだやま・えいごろう)
相撲
愛媛県
前田山 英五郎(まえだやま えいごろう、1914年5月4日 - 1971年8月17日)は大相撲の第39代横綱。愛媛県西宇和郡喜須来村(旧・保内町/現・八幡浜市)出身。身長181cm。
張り手をまじえた猛烈な突っ張りで戦中~戦後の多難な時期を強豪大関として支え、その功労に報いられる形で横綱を免許されたが、いわゆる「シールズ事件」で晩節を汚した横綱としてのイメージ、あるいは髙見山大五郎 髙見山の師匠としての「大相撲の国際化の先鞭をつけた親方」のイメージが強い。
1928年 昭和3年高砂部屋に入門。若い時期は粗暴な振る舞いで知られました。1934年 昭和9年、新十両を前にした稽古中に右腕を負傷、傷口からの細菌感染で骨髄炎に罹り、右腕切断必至といわれる重症にでした。その治療にたずさわった(腕に穴が開くほどの治療だった)前田和三郎医師に恩義を感じ、それまでの佐田岬から「前田山」に四股名をあらためました。昭和12年1月場所で新入幕。1938年 昭和13年5月場所、東小結の位置で11勝2敗、当時の大関陣がこぞって低迷していた番付運も手伝って、関脇を飛び越えて大関に昇進しました。
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1914年5月7日
ジャック=エリオット(Jack Elliott)
作曲家
アメリカ
1914年5月7日
仁杉 巌(にすぎ・いわお)
経営者
東京都
1914年5月8日
上田 稔(うえだ・みのる)
政治家
京都府
1914年5月11日
安藤 馨(あんどう・かおる)
電子技術者、経営者
東京都
1914年5月13日
ジョー=ルイス(Joe Louis)
ボクシング
アメリカ
1914年5月15日
ポール=サミュエルソン(Paul Anthony Samuelson)
経済学者
アメリカ
1914年5月19日
呉 清源(ご・せいげん)
囲碁
中国
呉 清源(ご せいげん、1914年5月19日 - )は、囲碁の棋士 (囲碁) 棋士。中国出身、日本棋院瀬越憲作名誉九段門下。本名は泉、清源は通称名。一時日本棋院を離れて読売新聞嘱託となるが、現在は日本棋院名誉客員棋士。全盛期には日本囲碁界の第一人者として君臨し、「昭和の棋聖」とも称されます。木谷実とともに「新布石」の創始者としても知られます。
呉清源の父、呉毅(炎曾)は平政院に務める官吏であったが、日本に留学していたことがあり、その時に囲碁に興味を持ち方円社に通うなどして初段に2子ほどの腕前となり、帰国時には多くの棋書を持ちでした。帰国後福州に住んだが、結婚して呉清源誕生後に北京に移ます。呉清源の原籍は福建省にあり先祖は代々官職についていたが、暮し向きは傾き始めていました。
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1914年5月19日
マックス=ペルツ(Max Ferdinand Perutz)
化学者
オーストリア→イギリス
1914年5月20日
小松 茂朗(こまつ・しげろう)
ノンフィクション作家
長野県
1914年5月27日
満田 久輝(みつだ・ひさてる)
化学者
京都府
1914年5月30日
安芸ノ海 節男(あきのうみ・せつお)
相撲
広島県
『安藝ノ海節男』より : 安藝ノ海節男(あきのうみ・せつお、1914年5月30日 - 1979年3月25日)は大相撲の第37代横綱。広島県広島市宇品町(現・広島市南区_(広島市) 南区宇品町)出身。双葉山定次 双葉山の70連勝を阻止、69連勝で止めた「世紀の一番」で知られるが、自身も風格ある土俵態度で人気のある名横綱とでした。本名は永田節男、四股名は「せつお」だが本名は「たかお」と読む。
昭和7年(1932年)2月場所に出羽海部屋から初土俵。順調に昇進して昭和11年(1936年)1月場所に新十両、昭和13年(1938年)1月、23歳で入幕しました。
当時の出羽海部屋では、打倒双葉を目指して場所ごとに作戦会議を開いたという。当時の力士たちの語るところでは、そんなことはなかったというのだが、特別に銘打った会議を持つことはなくても、双葉山対策を入念に語り合ったのは確かだろう。
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1914年5月31日
伊福部 昭(いふくべ・あきら)
作曲家
北海道
伊福部 昭(いふくべ あきら、1914年5月31日 - 2006年2月8日)は、日本を代表する作曲家。日本の音楽らしさを追求した民族主義的な力強さが特徴の数多くのオーケストラ曲のほか、『ゴジラ』を初めとする映画音楽の作曲家として、また音楽教育者として知られます。
1914年、北海道釧路町(現釧路市)幣舞警察官僚の伊福部利三、キワの三男としてうまれます。伊福部家は因幡の古代豪族を先祖とします。昭の代で67代目。
父は警察署長や音更村(現音更町)村長を務めた伊福部利三。構成作家の伊福部崇とは親戚関係にあます。工学博士で北海道大電子研究所教授や東京大先端研教授を歴任した伊福部達は甥(長兄宗夫の次男)。
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1914年6月2日
堂垣内 尚弘(どうがきない・なおひろ)
政治家
北海道
堂垣内 尚弘(どうがきない なおひろ、1914年6月2日 - 2006年2月2日)は、日本の内務官僚・政治家。東日本学園大学(現 北海道医療大学)の名付け親でもあます。
札幌市出身。北海道帝國大学(現・北海道大学)工学部卒業。海軍省を経て、1946年北海道庁に勤務。その後北海道開発庁へ出向し、1965年同庁事務次官となます。
その後1971年、町村金五の後継として保守陣営から北海道知事に当選し3期務めました。
1989年には学校法人・東日本学園大学(後の学校法人・東日本学園、現在の北海道医療大学の運営法人)の理事長に就任します。1995年には学校法人・東日本学園の名誉理事長となます。
1976年のさっぽろ雪まつりの会場において、来日していたソ連の対日外交責任者のコワレンコが「返せ、北方領土」の看板の撤去を命令調に要求したが、堂垣内知事は毅然として拒絶しています。
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1914年6月10日
黒沢 俊夫(くろさわ・としお)
野球
大阪府
黒沢 俊夫(くろさわ としお、1914年6月10日 - 1947年6月23日)は、大阪府出身の元日本のプロ野球選手一覧 プロ野球選手(外野手)。左投げ左打ち。174センチメートル cm、68キログラム kg。当時の表記は「黒澤 俊夫」。
旧制大阪府立八尾高等学校 大阪府立八尾中学校から旧制関西大学へ進学。1936年、名古屋金鯱軍に入団し春季大会より参加。1941年に名古屋金鯱軍が翼軍と合併したため、合併球団の西鉄軍 大洋軍→西鉄軍へ移籍。1944年には人員不足のため供出選手として読売ジャイアンツ 東京巨人軍へトレード移籍。この1944年、1946年は主軸打者として活躍しました。俊足の外野手で、歴代2位となる通算10個の盗塁 ホームスチールを成功させている(歴代1位は与那嶺要の11個)。
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1914年6月14日
岡田 晴夫(おかだ・はるお)
政治家
北海道
1914年6月14日
永井 智雄(ながい・ともお)
俳優
東京都
1914年6月15日
川尻 泰司(かわじり・たいじ)
人形劇演出家
東京都
1914年6月20日
島本 虎三(しまもと・とらぞう)
政治家
北海道
1914年6月21日
久保山 愛吉(くぼやま・あいきち)
漁師
静岡県
1914年6月21日
ウィリアム=ビクリー(William Vickrey)
経済学者
カナダ
1914年6月24日
フレッド=ホイル(Fred Hoyle)
天文学者
イギリス
1914年6月27日
霧島 昇(きりしま・のぼる)
歌手
福島県
霧島 昇(きりしま のぼる、本名: 坂本栄吾、1914年(大正3年)6月27日-1984年(昭和59年)4月24日)は戦前から戦後にかけて活躍した流行歌手。福島県いわき市出身。
大正3年に福島県双葉郡大久村(現在のいわき市大久町)の農家の三男として生まれます。小学校を卒業後上京し中学に通いながらボクサーを目指すが断念、テノールの藤原義江のレコードを聴き、日本の歌曲を流行歌として歌いたいと思い、苦学しながら東洋音楽学校(現在の東京音楽大学)に進む。同校を卒業。
アルバイトで吹き込んだエヂソン・レコード「僕の思い出」がコロムビアミュージックエンタテインメント コロムビア文芸部長松村重武(俳優・松村達雄の実父)の目にとまり、昭和11年にコロムビアに入社。当時のコロムビアは松平晃が看板スターだった。霧島は松平を目標に歌唱技術を磨き、松平にはないテノールの甘い音色と邦楽的技巧表現を生かしました。
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1914年7月1日
西河 克己(にしかわ・かつみ)
映画監督
鳥取県
Kathumi Nishikawa
西河 克己(にしかわ かつみ、1918年~)は、映画監督。鳥取県智頭町出身。
父は東京都庁の公務員。
大正 7年 鳥取県八頭郡土師村に生まれる
大正11年 上京(東京都大森へ)
昭和11年私立高輪中学校 卒業
昭和14年日本大学芸術科 卒業
昭和14年12月松竹大船撮影所、入社
昭和15年 9月徴兵(東南アジア・中国)
昭和21年 7月復員後、松竹に復職
昭和27年「伊豆の艶歌師」で初監督
昭和29年日活に移籍
昭和31年 3月結婚 (1女あり)
昭和44年日活を退社
昭和54年日本大学芸術学部 講師
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1914年7月2日
上松 陽助(うえまつ・ようすけ)
政治家
岐阜県
上松陽助(うえまつ ようすけ、1914年(大正3年)7月2日 - 1996年(平成8年)1月18日)は元岐阜県知事、元岐阜市長、岐阜県名誉県民、岐阜市名誉市民。
岐阜県岐阜市出身。岐阜中学校(現:岐阜県立岐阜高等学校)、第八高等学校(現:名古屋大学)、東京帝国大学法学部政治学科(現:東京大学)卒業。
その後、日鉄鉄鉱 日鉄鉱業株式会社に就職し、兵役を経て、雑貨を扱う常盤産業株式会社を設立し代表取締役社長に就任。
岐阜市経済部長、企業部長、民生部長、農林部長、民生局長等の要職を歴任し、収入役を経て岐阜市長に就任、1977年2月に岐阜県知事選挙に出馬し初当選。1989年まで3期12年を務め、グローバリゼーション 国際化・情報化社会 情報化・社会の高齢化 高齢化といった激しい社会変化の中で、常に時代を先取りしながら多様化する県民のニーズに着実に対応しました。
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1914年7月18日
ジーノ=バルタリ(Gino Bartali)
自転車レーサー
イタリア
1914年7月18日
マック=ロビンソン(Mack Robinson)
陸上競技/短距離
アメリカ
1914年7月21日
中村 又五郎 〈2代目〉(なかむら・またごろう)
俳優
東京都
1914年7月23日
南 博(みなみ・ひろし)
社会心理学者
東京都
南 博(みなみ ひろし、1914年7月23日 - 2001年12月17日)は、日本の社会心理学者。
東京都生まれ。京都大学哲学科卒。アメリカのコーネル大学大学院に留学。社会心理研究所、伝統芸術の会、映画と心理の会を設立し、後にそれらを統合し日本心理センターとし、その所長を務めます。全日本気功協会会長。一橋大学名誉教授。中華人民大学名誉教授。妻は新劇女優の東恵美子であり、日本で一番早くから夫婦別姓を事実上行なってきた夫婦として知られます。その関係は「自由結婚」「別居結婚」「日本のサルトルとボーボワール」などとも呼ばれ、マスコミなどでも話題にでした。
戦後、アメリカ社会心理学を日本に導入し、国民性から大衆文化まで様々な社会現象の背景にある心理を解き明かし「日本人論」ブームをリードしました。また、伝統芸能や映画、テレビ番組においても幅広く活躍していました。アグリッピーナコンプレックスの提唱者としても有名。
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1914年7月25日
山形 勲(やまがた・いさお)
俳優
東京都
山形 勲(やまがた いさお、本名:塙 勲(はなわ いさお)、1915年7月25日 - 1996年6月28日)は、日本の俳優。
イギリス・ロンドン生まれ。日本俳優学校卒業。東宝劇団を経て、1942年、山村聰らと劇団文化座を結成。1949年の『斬られの仙太』で映画初出演。往年の東映時代劇では品のある名悪役として評価が高い。また『水戸黄門 (テレビドラマ) 水戸黄門』の柳沢吉保役は、はまり役と言われたほどの名演技ででした。
1996年6月28日、肺結核のため死去。享年80。
斬られの仙太(1949年)
地獄門(1953年)
浮雲 (映画) 浮雲(1955年)
点と線(1958年)
球形の荒野(1975年)
不毛地帯(1976年)
徳川一族の崩壊(1980年)
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1914年7月30日
加藤 省吾(かとう・しょうご)
作詞家
静岡県
1914年7月30日
上林 吾郎(かんばやし・ごろう)
編集者
京都府
1914年7月30日
キラニン卿(Lord Michael Morris Killanin)
IOC 第6代会長
アイルランド
キラニン卿(Lord Killanin)ことマイケル・モリス3世キラニン男爵(The Right Honourable Michael Morris, 3rd Baron Killanin、1914年7月30日 - 1999年4月25日)は、アイルランド人のジャーナリストでスポーツ界の要人ででした。
国際オリンピック委員会(IOC)の第6代会長を務め、大英帝国勲章の第5階位(MBE)に叙せられました。
彼は1927年に、おじのキラニン男爵から大英帝国の爵位を継承しました。
キラニン卿は「ゴールウェイの部族」を構成する14家族の一員として、ロンドンで生まれました。
彼はイートン・カレッジ、パリのソルボンヌ大学、さらにケンブリッジ大学モードリン・カレッジで教育を受けました。
1930年代後半に彼はジャーナリストとしての経歴を歩み始めたが、第二次世界大戦時には志願兵として従軍しました。
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1914年7月30日
立原 道造(たちはら・みちぞう)
詩人
東京都
立原 道造(たちはら みちぞう、大正3年(1914年)7月30日 - 昭和14年(1939年)3月29日)は、昭和初期に活躍した詩人、建築家。父は婿養子立原貞次郎、母は立原登免(通称 光子)。次男として生まれます。先祖には立原翠軒、立原杏所などがいます。学歴は東京大学 東京帝国大学工学部建築学科卒業。学位 称号(現学位)は学士 工学士(東京帝国大学)。戒名は温恭院紫雲道範清信士。墓は東京都谷中の多宝院。
大正3年(1914年)、立原貞次郎、トメ夫妻の長男として日本橋区橘町に生まれます。祖先は水戸藩の儒家で、かの『大日本史』を編纂した立原翠軒、画家立原杏所につながます。昭和2年(1927年)、13歳の折、北原白秋を訪問するなど、既に詩作への造詣を持っていました。同年、口語自由律短歌を『學友會誌』に発表、自選の歌集である『葛飾集』『両國閑吟集』、詩集『水晶簾』をまとめるなど若干13歳にして歌集を作り才能を発揮していました。東京府立第三中学(現東京都立両国高等学校)から第一高等学校 (旧制) 第一高等学校に進学した昭和6年(1931年)、短歌の倶楽部に入部した道造は『詩歌』に投稿するなど高校時代を通じて詩作を続け、『校友會雜誌』に物語「あひみてののちの」を掲載していました。翌年、7年(1932年)、自らの詩集である『こかげ』を創刊する一方、四行詩集『さふらん』編纂も手がけました。高校最後の年を迎えた昭和8年1933年、詩集『日曜日』『散歩詩集』を製作、翌年には晴れて東京帝国大学工学部建築学科への入学が決まます。学業では建築に取り組んでいた道造は東京帝大在学中に設計分野では栄誉ある辰野賞を3度、受賞しました。大学卒業年次を迎えた昭和11年(1937年)、シュトルム短篇集『林檎みのる頃』を訳出するなど海外の詩集にも造詣を示しました。翌12年(1938年)、石本建築事務所に入社した道造は「豊田氏山荘」を設計、詩作の方面では物語「鮎の歌」を『文藝』に掲載し、詩集『ゆふすげびとの歌』を制作。その他、詩集『萱草に寄す』、『曉と夕の詩』と立て続けに出版、発表し建築と詩作の双方で才能を見せました。昭和14年、第1回中原中也賞に輝いたものの、同年3月29日午前2時20分没しました。享年24。若くして亡くなった生年詩に留まらず短歌・俳句・物語・パステル画・スケッチ・建築設計図など、多くの作品を残しました。平成9年(1997年)、文京区弥生に立原道造記念館が設立されました。道造の優しい詩風には今日でも共鳴する人は多く、現代の文庫本としても生前の詩集を集めたものがいくつも出版されています。
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1914年8月1日
花柳 啓之(はなやぎ・ひろゆき)
日本舞踊家
東京都
1914年8月2日
大江 季雄(おおえ・すえお)
陸上競技/棒高跳び
京都府
大江 季雄(おおえ すえお、1914年8月2日 - 1941年12月24日)は京都府舞鶴市出身のベルリンオリンピックの棒高跳び日本代表で銅メダリスト。
大江は1936年(昭和11年)8月にドイツ・ベルリンで開かれたベルリンオリンピックに棒高跳び日本代表として参加。そして決勝に残ったのはアメリカ合衆国 アメリカのメドウス選手と同じく日本代表の西田修平ら5人ででした。決勝ではメドウスが4m35cmを跳び金メダル。2位は4m25cmを跳んだ大江と西田となり、裁定は日本側に委ねられました。そして4m25cmを一回で跳んだ西田を2位、2回目で跳んだ大江を3位と発表されました。
しかし表彰台に登る間際、西田は後輩・大江のこれからの活躍を願い、大江をそっと2位の表彰台へと送り出だす。大江が憧れ、そして目標としていた先輩・西田から譲られたオリンピック2位の表彰台は、大江のかけがえのない喜びとなり、帰国後、2人はお互いに健闘を讚え合い銀と銅のメダルを繋ぎ合わせました。その後の大会で、大江はメドウスに雪辱を果たし、その後も4m35cmを跳び、その後の21年間、日本記録保持者としてその名を残す事にでした。
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1914年8月2日
木下 順二(きのした・じゅんじ)
劇作家
東京都
木下 順二(きのした じゅんじ、1914年8月2日 - )は、東京都文京区本郷生まれの戯曲作家。代表作に有名な『夕鶴』があます。日本劇作家協会顧問。
10代を熊本市で過ごし、旧制熊本中学(現熊本県立熊本高等学校)、第五高等学校を経て1936年(昭和11年)、東京帝国大学文学部英文科に入学し、中野好夫のもとでシェイクスピアを専攻しました。同大学院修士課程修了。
第二次世界大戦後,明治大学講師をつとめる傍ら『彦市ばなし』などの民話劇を経て1949年に『夕鶴』を発表.その他『風浪』(第一回岸田演劇賞受賞),『オットーと呼ばれる日本人』および東京裁判を題材とする『神と人とのあいだ』などで戦後の日本演劇を代表する作家となる.1978年に『文藝』誌上に発表した『子午線の祀り』(読売文学賞受賞)では叙事詩的な「語り」を「群読」というスタイルを導入することで演劇化すると同時に,現代劇のスタイルと歌舞伎,能狂言という伝統芸能のスタイルを融合を実現している.戯曲の執筆の他,小説,演劇評論,シェイクスピアの翻訳など広い分野に著作があり,それらは『木下順二集』(岩波書店)全十六巻にまとめられている.1995年、『馬の文化叢書』でJRA賞馬事文化賞を受賞。その他には1985年に朝日賞を受賞。
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1914年8月2日
塚田 正夫(つかだ・まさお)
将棋
東京都
塚田 正夫(つかだ まさお、1914年(大正3年)8月2日 - 1977年(昭和52年)12月30日)は、日本の棋士 (将棋) 将棋棋士、名誉十段。花田長太郎九段門下。棋士番号11。東京都文京区出身。
九段戦(のちの十段戦 (将棋) 十段戦、現在の竜王戦)を3連覇(その後4連覇まで記録を伸ばす)した功績により初の「永世九段」となます。死後、将棋界でただ一人の「名誉十段」を追贈されます。
詰将棋作家としても有名であり、氏の名前を冠した「塚田賞」という賞があり、毎年優れた詰将棋作品を『近代将棋』誌で表彰しています。
1927年 入門
1932年 四段
1933年 五段
1935年 六段
1938年 七段
1940年 八段
1954年11月27日 永世九段
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1914年8月9日
後藤田 正晴(ごとうだ・まさはる)
警察官僚、政治家
徳島県
後藤田 正晴(ごとうだ まさはる、1914年(大正3年)8月9日 - 2005年(平成17年)9月19日)は、昭和・平成時代の警察官僚、政治家。衆議院議員。警察庁長官、中曽根康弘内閣の内閣官房長官・行政管理庁長官・総務庁長官、宮澤喜一内閣の国務大臣 副総理・法務大臣などを歴任し、「カミソリ後藤田」、「日本のユーリ・アンドロポフ アンドロポフ」の異名をでした。位階勲等は正三位勲一等。
1914年(大正3年)8月9日、徳島県麻植郡東山村(後の美郷村、吉野川市美郷)に生まれます。後藤田家は、15代続く庄屋の家柄で、父親の後藤田増三郎は、自由党 (日本) 自由党の壮士として出発し、徳島県議会議員、麻植郡会議長などを務めた地元の名士ででした。1921年(大正11年)に腎臓病で父を、1923年(大正13年)に母を相次いで失い、姉・好子の婚家で徳島有数の素封家であった井上家に預けられました。
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1914年8月9日
ロバート=アルドリッチ(Robert Aldrich)
映画監督
アメリカ
1914年8月19日
早坂 文雄(はやさか・ふみお)
作曲家
宮城県
早坂 文雄(はやさか ふみお、1914年8月19日 - 1955年10月15日)は、日本の作曲家。
1914年(大正3年)、宮城県仙台市に生れます。祖父の代までは裕福な家柄だったというが、父の代には没落していました。幼時、札幌に移住します。家庭はこれといって音楽的環境ではなかったが、父は日本画をたしなみ、早坂文雄自身も北海中学時代には洋画家になろうと思っていたが、15歳の頃から作曲を志しました。しかし16歳の時に父が出奔し、翌年には母も病没したため、2人の弟妹の面倒を一人で見なければならず、そのため中学卒業後は音楽学校に入りたいという希望を持ってはいたが、やむなく実社会にでした。
だが音楽への情熱は冷めやらず、ピアノを買えない彼は、ピアノの音が聴こえれば、見知らぬ家であろうとかまわずに、その家でピアノを弾かせてもらっていました。この頃に伊福部昭、三浦淳史と知り合い、互いに意気投合します。早坂文雄はピアノ、伊福部はヴァイオリンを弾き、伊福部が同好の大学生と組織した弦楽四重奏団と伊福部の兄の弾くコントラバスを加えてピアノ六重奏団を結成しました。1934年(昭和9年)、「新音楽連盟」を創立し、第1回国際現代音楽祭を札幌で開く。曲目はすべて日本初演となる西欧現代作品で埋め、早坂文雄はサティの《3つのグノシエンヌ》、《気取り屋の気むずかし屋の3つの特異的ワルツ》などを演奏しました。この頃の作品はラテン的な影響の中に日本的なニュアンスの確立を目指したものであます。ピアノ曲《激越なる小品》(1934)、《サティ讃歌》(1934)、コープランドに捧げた《君子の庵》(1934)、《エヴォカシオン》(1935)などがあるが、これらはのちに習作として作品リストから除外しています。
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1914年8月20日
藤田 宗一(ふじた・そういち)
野球
大阪府
藤田 宗一(ふじた そういち、 1972年10月17日 - )は、京都府八幡市出身の千葉ロッテマリーンズに所属するプロ野球選手であます。ポジションは投手。左投げ左打ち。175cm、80Kg。背番号は12番。髭 ひげが特徴的。主な球種は直球と球種 (野球)#スライダー スライダー。ほぼこの二球種のみであるが、まれにカーブも投げます。
長崎県の島原中央高から西濃運輸硬式野球部 西濃運輸を経て、1997年にドラフト会議 ドラフト3位で千葉ロッテに入団。1年目からリリーフ投手として活躍し、入団から5年連続で50試合以上に登板しました。これは秋山登の9年連続に次ぐ記録となった(現在は岩瀬仁紀の7年連続(継続中)に次いで3位の記録)。
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1914年8月25日
フレデリック=ロビンズ(Frederick Chapman Robbins)
医学者
アメリカ
1914年8月31日
横河 正三(よこがわ・しょうぞう)
経営者
東京都
1914年9月4日
坪内 寿夫(つぼうち・ひさお)
経営者
愛媛県
坪内 寿夫(つぼうち ひさお、1914年9月4日 - 1999年12月28日)は愛媛県松前町 (愛媛県) 松前町生まれの日本の実業家。倒産寸前の企業を数多く再建させた手腕から、一時はマスコミによって「再建王」、また船舶・造船・ドック会社を多数抱えたことから「船舶王」、四国を中心としたグループ形態から「四国の大将」とも称されました。
本名は桧三夫であったが、妻の姓名判断により寿夫に改名しました。
1934年(昭和9年) 弓削商船学校(現弓削商船高等専門学校)卒業後、南満州鉄道に就職。第二次世界大戦に従軍。
1945年(昭和20年) シベリアに抑留されます。
1948年(昭和23年) 帰国し、愛媛に戻ます。娯楽がこれから儲かると着目し、松山市で映画館経営を手がけ利益を上げます。因みに日本の映画館での二本立て上映を初めて行ったのは、坪内のこの劇場であます。
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1914年9月7日
ジェームズ=ヴァン=アレン(James Alfred Van Allen)
物理学者
アメリカ
1914年9月9日
今西 寿雄(いまにし・としお)
登山家
奈良県
1914年9月10日
ロバート=ワイズ(Robert Wise)
映画監督
アメリカ
1914年9月12日
友納 武人(とものう・たけと)
政治家
宮城県
1914年9月12日
デスモンド=リュウェリン(Desmond Llewelyn)
俳優
イギリス
1914年9月14日
阿部 助哉(あべ・すけや)
政治家
新潟県
1914年9月14日
高橋 節郎(たかはし・せつろう)
漆芸家
長野県
1914年9月14日
ロバート=ディーツ(Robert Dietz)
地球物理学者
アメリカ
1914年9月17日
金丸 信(かねまる・しん)
政治家
山梨県
金丸 信(かねまる しん、大正3年(1914年)9月17日 ‐ 平成8年(1996年)3月28日)は、昭和・平成期における日本の政治家、衆議院議員(12期)。
1914年9月17日、山梨県中巨摩郡今諏訪村(現・南アルプス市)に、父・金丸康三と母・とくの長男として生まれます。金丸家は、「里見八犬伝」から、子どもの名前をつけており、3番目に生まれた長男は、「信」と名づけられました。(なお、兄弟は、上から、れい・てい・信・仁・忠・智義と付けられています。)当時の金丸家は、酒造屋であり、多くの使用人を抱えている裕福な家ででした。
西野小学校を卒業の後、父の友人が校長をしていた、旧制身延中学校(現・山梨県立身延高等学校)に入学をしました。旧制身延中では、父の友人が剣道の師範をしていたことから、剣道を学校でしていたが、試合で頭を叩かれたことが原因で、剣道嫌いとなり、柔道に精進しました。
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1914年9月18日
佐藤 信(さとう・まこと)
物理学者
東京都
佐藤 信二(さとう しんじ、1932年2月8日 - )は、日本の政治家。自由民主党_(日本) 自由民主党所属の元衆議院議員。勲等は勲一等。本籍地は山口県熊毛郡 (山口県) 熊毛郡田布施町。学歴は慶應義塾大学法学部卒業。学位は学士 法学士(慶應義塾大学)。衆議院議員永年在職表彰受彰。
東京都立大学附属高等学校~慶應義塾大学法学部卒業後、日本鋼管株式会社に入社。輸出課長を務めます。(高校時代の同級生に、防衛大学校一期性で後の経世会参院議員で国民新党結成と同時に副代表就任した田村秀昭)
1974年(昭和49)参議院選挙全国区で初当選。沖縄開発庁政務次官を務めます。
1979年(昭和54)父の地盤を継ぐため衆議院に鞍替えし当選。以後衆議院議員を8期務めます。自民党内では田中角栄 田中→竹下登 竹下→小渕恵三 小渕派に属し、運輸大臣・通商産業大臣を歴任したが、1998年の自民党総裁選では領袖・小渕恵三を推す派の意向に反し出馬した梶山静六を支持し派を離脱しました。
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1914年9月19日
佐伯 清(さえき・きよし)
映画監督
愛媛県
1914年9月21日
上山 善紀(うえやま・よしのり)
経営者
大阪府
上山 善紀(うえやま よしのり、1914年9月21日 - )は昭和後期から平成期(1980年代-1990年代前半)の実業家。近畿日本鉄道(近鉄)元社長(大阪電気軌道創業から10代目)・会長、近鉄グループの元代表者。新潟県分水町(現・燕市)出身。実家は西本願寺系統の寺院。
京都帝国大学法学部卒業後、ニチロ 日魯漁業を経て1945年に近鉄入社。1981年に代表取締役社長、1987年に会長に就任。上本町駅 (大阪府) 上本町や大阪阿部野橋駅 あべの橋のターミナル整備、近鉄けいはんな線 東大阪線開業や、志摩スペイン村の建設などに尽力しました。
1981年から大阪近鉄バファローズ 近鉄バファローズのオーナー代行を務め、1989年10月、佐伯勇(当時名誉会長)の死去を受けオーナー昇格。1998年まで務めました。
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1914年9月23日
東條 輝雄(とうじょう・てるお)
航空技術者、経営者
東京都
東條 輝雄(とうじょう てるお、1914年9月23日 - )は、昭和期の日本の航空技術者、実業家。
東條英機元首相の次男。父から軍人よりも技術者になるよう進められ、東京都立新宿高等学校 東京府立第六中学校、福岡高等学校 (旧制)、東京帝国大学航空学科を経て三菱重工業に入社し、名古屋航空機製作所に勤務。ゼロ戦の設計チームに配属され、強度計算を担当しました。大東亜戦争(太平洋戦争)敗戦後の航空禁止で閑職となったが、日本航空機製造に出向してYS-11やC-1 (輸送機) C-1輸送機の設計に参加。三菱重工業副社長、三菱自動車工業 三菱自動車社長、同社会長、同社相談役等を歴任しました。
航空エンジニア とうしょうてるお
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1914年9月26日
河津 憲太郎(かわつ・けんたろう)
水泳
広島県
1914年9月27日
宇野 重吉(うの・じゅうきち)
俳優
福井県
宇野 重吉(うの じゅうきち、本名:寺尾信夫(てらお のぶお) 1914年9月27日 - 1988年1月9日)は昭和初期から末期(1940年代-1980年代)の俳優、演出家。福井県福井市(旧下文殊村)出身。
滝沢修らと共に劇団民藝の創設者であり、第二次世界大戦前~戦後にかけて、長く演劇界をリードしてきた歴史に名を残す俳優であます。リアリズムを基調とした近代的な芸を追及していました。芸名は、中野重治と鈴木三重吉に由来しています。
旧制福井中学(現・福井県立藤島高等学校)を経て日本大学芸術科に進む。1932年、築地小劇場の左翼劇場と新築地劇団の合同公演で初舞台。大学を中退して、東京左翼劇場に入ます。1934年、新協劇団の結成に参加。1941年から1943年には、瑞穂劇団に参加。戦後となった1946年に第二次新協劇団に加入。
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1914年9月27日
名寄岩 静男(なよろいわ・しずお)
相撲
北海道
名寄岩静男(なよろいわ・しずお、1914年9月27日 - 1971年1月26日)は、大相撲の力士で最高位は大関。本名、岩壁静雄。北海道名寄市出身(生まれは小樽市)。同じ立浪部屋の双葉山定次 双葉山、羽黒山政司 羽黒山と「立浪三羽烏」と称されました。直情径行な人柄と一本調子な取り口から「怒り金時」とも。大関から二度の陥落を経験したが、40歳で金星と敢闘賞を獲得、関脇まで返り咲き、「涙の敢闘賞」として舞台化・映画化もされました。
昭和7年5月初土俵。同部屋の約1年後輩で、各段優勝のスピード出世で追いかけてくる羽黒山をライバル視していました。入幕まではすべて羽黒山に先んじたものの、大関争いでとうとう追い抜かれました。逆に言えば、幾人もの先輩をゴボウ抜きにして来た羽黒山に、三役までは先を譲らなかったということになます。
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1914年10月1日
梅沢 浜夫(うめざわ・はまお)
微生物学者
福井県
1914年10月1日
加賀 大介(かが・だいすけ)
文筆家
石川県
加賀 大介(かが だいすけ、1914年10月1日 - 1973年6月21日)は、石川県根上町(現能美市)生まれの作詞家。本名・中村義雄。後に加賀大介に改名。
1948年に朝日新聞が募集した全国高等学校野球選手権大会の歌に、婚約者(後に妻)であった中村道子の名前を借りて応募。5,252篇中の1位となます。この歌は『栄冠は君に輝く』として知られます。加賀自身は病で右足を切断した身であったため、生涯唯一度も阪神甲子園球場 甲子園に行ったことはなでした。
妻の名前を借りて応募したのは、応募当時プロの文筆家であったため「懸賞金目当て」と思われるのが嫌だったからと言われています。そのため、当選後も1968年までは「中村道子作詞・古関裕而作曲」と表記されていました。1968年の全国高等学校野球選手権大会 第50回大会を機に真相を公表し、晴れて「加賀大介作詞・古関裕而作曲」と表記されるようにでした。
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1914年10月4日
エディ=タウンゼント(Eddie Townsend)
ボクシング
アメリカ
1914年10月5日
ジャック=メディカ(Jack Medica)
水泳
アメリカ
1914年10月6日
トール=ヘイエルダール(Thor Heyerdahl)
探検家
ノルウェー
1914年10月7日
今井 功(いまい・いさお)
物理学者
旧・中国
今井功(いまい いさお、1914年10月7日 - 2004年10月24日)は物理学者で、文化勲章受章者。 専門は流体力学。
1914年に関東州大連に生まれ、神戸ででした。 幼少時より学業に秀で、跳び級制度により小学校5年修了で中学校に入学しました。 1936年に東京帝国大学理学部物理学科を卒業してからは、しばらく大阪帝国大学理学部の友近晋教授のもとで助手を勤め、2年半のちに東大へ講師として戻り、1942年に助教授、1950年に教授に昇進しました。 その間、戦中から戦後にかけて「任意翼型の理論」、「遷音速流の理論」、「遅い粘性流の理論」などの各方面で、複素関数論、特に等角写像の方法を自在に操って当時の世界で懸案となっていた難問を次々に解決して世界の研究をリードし、かつ事物の本性に流れの場をみる流体力学的思考を深く身につけました。 またその過程で発展させたWKB法の精密化は有名で、「今井の方法」の名を得ています。 これらの業績により1959年に日本学士院恩賜賞を受賞し、1988年には文化勲章を受章しました。
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1914年10月7日
ピストン堀口(ぴすとん・ほりぐち)
ボクシング
栃木県
ピストン堀口(-ほりぐち、本名:堀口恒男(ほりぐち つねお) 1914年10月7日 - 1950年10月24日)は、栃木県真岡市出身のプロボクサー。昭和初期における日本ボクシング界の象徴的存在で「拳聖」と呼ばれました。元日本フェザー級・東洋フェザー級および日本ミドル級チャンピオン。弟に元日本バンタム級チャンピオンの堀口宏がいます。
対戦相手をロープに追い詰めての左右の連打を得意とし、「ピストン戦法」と呼ばれました。その無類のスタミナは、10分間連打でミット打ちを続けてなお息切れ一つしなかったという。堀口の連打が始まると「わっしょい、わっしょい」の大合唱が起こる程の人気ででした。
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1914年10月14日
レイモンド=デービス(Raymond Davis,Jr.)
物理学者
アメリカ
1914年10月17日
西条 凡児(さいじょう・ぼんじ)
漫談家
大阪府
西条 凡児(さいじょう ぼんじ、1914年 - 1993年)は、日本の漫才 漫才師・漫談 漫談師。
1935年商業学校時代の親友だった九条芸児とのコンビで漫才界でデビュー。戦後はソロの漫談師として活動するが、日本の民間放送がスタートすると共に放送パーソナリティーとしても活躍。中でも「素人名人会」、「おやじバンザイ!!」、「凡児の娘をよろしく」の司会で毒舌ながらも庶民的な語り口が受け、視聴者から愛される存在とでした。
お笑い芸人 さいしようほんし
1914年生 さいしようほんし
1993年没 さいしようほんし
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1914年10月21日
殿内 芳樹(とのうち・よしき)
詩人
長野県
1914年10月24日
バートラム=フォアラー(Bertram R. Forer)
心理学者
アメリカ
1914年10月28日
リチャード=シング(Richard Laurence Synge)
化学者
イギリス
1914年10月28日
ジョナス=ソーク(Jonas Edward Salk)
医学者
アメリカ
1914年10月31日
丹羽 久章(にわ・きゅうしょう)
政治家
愛知県
1914年11月2日
ジョニー=バンダーミーア(Johnny Vander Meer)
野球
アメリカ
1914年11月3日
大来 佐武郎(おおきた・さぶろう)
経済学者
旧・満州
大来 佐武郎(おおきた さぶろう、1914年11月3日 – 1993年2月9日)は、昭和期の官庁エコノミスト。元外務大臣。戦後日本を代表する国際派エコノミストとして活躍しました。
国民所得倍増計画策定に関わったアンポンエコノミストとしての知名度以上に、大来の名を大来たらしめた所以は、留学にと頼まれると紹介状を人の区分け無く書いてくれることにあったと云われています。その人望の厚さが後年の民間出身としての第2次大平内閣時代の外務大臣抜擢などに至ったとも云われています。
1914年11月3日 – 中国大連市に、新聞記者・大来修治の三男として生まれます。
1927年 – 東京府立第一中学校(現・東京都立日比谷高等学校)入学。
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1914年11月3日
戸倉 勝城(とくら・かつき)
野球
山口県
1914年11月10日
エドムント=コーネン(Edmund Conen)
サッカー
ドイツ
1914年11月13日
入野 義朗(いりの・よしろう)
作曲家
北海道
入野義朗(いりの よしろう、1921年11月13日-1980年6月23日)は日本の作曲家であます。旧ソビエト連邦・ウラジオストクに生まれます。東京帝国大学卒業。
ヴァイオリン協奏曲(1938)
小管弦楽のためのシンフォニエッタ(1953)
十二音の音楽 : シェーンベルクとその技法
十二音作曲技法
音楽の基礎ソルフェージュ 初級編 上/中/下(高橋冽子との共編著)
シェーンベルクとその楽派 ”Shoenberg and his school” (ルネ・レイボヴィッツ著)
現代音楽の記譜 ”Das Schriftbild der neuen Musik” (エルハルト・カルコシュカ著)
日本の作曲家 いりのよしろう
Irino Yoshirō
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1914年11月18日
羽黒山 政司(はぐろやま・まさじ)
相撲
新潟県
羽黒山政司(はぐろやま・まさじ、1914年11月18日 - 1969年10月14日)は、新潟県中之口村出身の大相撲の第36代横綱。
上京し、風呂屋の三助をやっている時、先代緑嶌友之助 立浪にスカウトされ入門しました。序ノ口から幕下まですべて優勝し、関取増員の影響もあって各段1場所のハイスピードで昭和12年(1937年)1月場所で関取に昇進しました。現在は、幕下で最低2場所の経験が必要なので、このスピード昇進は今後も破られないと思われます。十両も1場所で突破、同年5月に新入幕とでした。
戦前・戦中は同部屋の双葉山定次 双葉山の影に隠れた存在だったが、彼の引退後は第一人者として戦後荒廃した相撲界を支えた(当時「これで俺の時代が来た!」という名言を残した)。2度のアキレス腱断裂から奇跡的に復活、12年の長きにわたって横綱に在位しました。豪快な土俵入り(不知火型)で人気だった。
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1914年11月19日
若狭 得治(わかさ・とくじ)
運輸官僚、経営者
富山県
若狭 得治(わかさ とくじ、1914年(大正3年)11月19日 - 平成17年(2005年)12月27日)は、昭和、平成期の日本の運輸省 運輸官僚、実業家。富山県出身。運輸事務次官を経て全日本空輸(全日空)社長に就任し、「全日空中興の祖」と言われたが、ロッキード事件で有罪にでした。ロッキード事件後も「航空業界のドン」として君臨しました。
富山県立砺波高等学校 砺波中学などを経て、昭和13年(1938年)東京帝国大学法学部を卒業します。逓信省に入省します。戦後、運輸省に移ます。海運局長時代には、海運会社を6社に統合し海運業界の体質強化をでした。運輸事務次官で退官。
昭和44年(1969年)全日空に天下ます。副社長を経て、昭和45年(1970年)に社長に就任します。社長としては全日空の国際線進出を実行し、ジェット機の導入推進や関連企業としてホテル事業などを展開するなど経営の多角化にも積極的に取組み、「全日空中興の祖」と呼ばれました。
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1914年11月20日
チャールズ=ベルリッツ(Charles Frambach Berlitz)
作家
アメリカ
1914年11月22日
安倍 勲(あべ・いさお)
外交官
栃木県
1914年11月22日
戸田 藤一郎(とだ・とういちろう)
ゴルフ
兵庫県
1914年11月23日
田村 魚菜(たむら・ぎょさい)
料理研究家
静岡県
1914年11月25日
ジョー=ディマジオ(Joe Dimaddio)
野球
アメリカ
1914年12月5日
パウル=アステ(Paul Aste)
リュージュ
オーストリア
1914年12月12日
石田 博英(いしだ・ひろひで)
政治家
秋田県
石田 博英(いしだ ひろひで、1914年12月12日 - 1993年10月14日)は、昭和時代の政治家。衆議院議員。
秋田県大館市出身。祖父は花岡鉱山を開発した鉱山師。父は京都帝国大学工科を卒業後、冶金技師として大阪造幣局に勤務。戦後、闇米をせず栄養失調のため死去しています。
早稲田大学政治経済学部に入学し、在学中に恩師で後に早大政治経済学部長となった吉村正に連れられて三木武夫の選挙応援をしたことが機縁となり、三木との関係を作ます。石田は、選挙民に嘲笑されてはならないと父親のフロックコートを借りて、三木を自転車に載せて街頭演説にでした。この他、学生消費組合に関連し、早稲田警察署などに連行されたことや、早大の正門前で喫茶店を経営し利益を上げたことなどが、学生時代のエピソードとして伝わっています。1939年、早稲田大学を卒業後、中外商業新報(現在の日本経済新聞)に入社。政治部に配属されます。上海支局長、政治部次長を歴任。1946年4月、第22回衆議院議員総選挙に自由党 (日本) 自由党から立候補し当選を果たす。その後、石田は中外商業新報の編集局長であった小汀利得の紹介で石橋湛山に私淑するようになます。石橋が公職追放となると他の政治家が占領軍を恐れて石橋との関係を疎遠にしていく中で、石田は「石橋側近」である事を公言して憚る事は無でした。
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1914年12月12日
野澤 繁二(のざわ・しげじ)
出版人、経営者
東京都
1914年12月12日
渡辺 誠毅(わたなべ・せいき)
経営者
東京都
1914年12月16日
丸田 芳郎(まるた・よしお)
経営者
長野県
丸田 芳郎(まるた よしお、1914年12月16日 - 2006年5月30日)は、日本の実業家。工学博士。長野県長野市川中島町出身。旧制長野中学(現:長野県長野高等学校)を経て、桐生高等工業学校(現:群馬大学工学部)卒業。花王の前身の花王石鹸の元社長。
1914年(大正3年)12月16日 - 長野県長野市川中島町に生まれます。
1935年(昭和10年) - 花王の前々身、大日本油脂株式会社に入社。
1954年(昭和29年) - 花王石鹸の取締役に就任。
1969年(昭和44年) - 副社長に就任。
1971年(昭和46年) - 伊藤英三が死去したため社長に就任。在職中は、経営の多角化・省力化を進め、公害防止にも努めました。
2006年(平成18年)5月30日 - 肺炎のため91歳で死去。
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1914年12月18日
松村 達雄(まつむら・たつお)
俳優
神奈川県
松村 達雄(まつむら たつお、1914年12月18日 - 2005年6月18日)は、日本の俳優。
神奈川県横浜市生まれ。
法政大学予科、日本大学専門部芸術科を経て、法政大学経済学部に復籍し、ラグビー部左ウィングで活躍しました。
その後、1938年に法政大学を卒業しました。旧新協劇団研究生となるが1942年に応召され、戦地に向でした。復員後、1952年に新劇常打ち小屋“五十人劇場”を創設したが1957年に解散しました。
その後、テレビドラマや映画、舞台で精力的に活躍しました。
特に、山田洋次監督の映画『男はつらいよ』では、1972年から亡くなった森川信の後を継ぎ、『柴又慕情』から『寅次郎恋やつれ』(74)までの5作で2代目おいちゃんをつとめました。
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1914年12月19日
楠本 保(くすもと・たもつ)
野球
兵庫県
1914年12月28日
上原 げんと(うえはら・げんと)
作曲家
青森県