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1913年生まれ男性の風水 運勢・方角
1913年生まれの男性 ()
1913年生まれの有名人
1913年1月2日
林 健太郎(はやし・けんたろう)
歴史学者(西洋史)
神奈川県
林 健太郎(はやし けんたろう、1913年1月2日-2004年8月10日)
昭和10年(1935年)東京帝国大学文学部西洋史学科卒。第一高等学校 (旧制) 旧制一高教授、東京大学文学部助教授を経て、昭和29年(1954年)年東京大学文学部教授。旧制一高時代からマルクス主義の立場に立ち、戦時中は反ファシズム論を展開。昭和18年(1943年)に『独逸近世史研究』を出版し、近代ドイツの政治社会の特質を解明しました。終戦の前年に海軍に召集され一等兵として終戦を迎えました。戦後、マルクス主義を離れ、竹山道雄、高坂正顕らと「日本文化フォーラム」を結成しました。その後の評論活動は現実主義の立場から時流を批判する立場を貫き、マルクス主義や進歩的文化人を批判し、左派からはタカ派と称されました。
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1913年1月6日
武田 豊(たけだ・ゆたか)
経営者
東京都
武田 豊(たけだ ゆたか、1914年1月6日~2004年2月15日)は、日本の実業家。宮城県高清水町出身。新日本製鐵代表取締役会長、経済団体連合会(経団連)副会長、日本鉄鋼連盟会長などを歴任しました。東京帝国大学法学部政治学科卒業。
1939年に大学を卒業して日本製鐵入社。1950年分裂により富士製鉄に移り、社長室秘書課長、人事部長などを経て、1970年3月八幡製鉄と合併し新日鐵が発足するとともに専務となり、1977年には副社長、1981年社長に昇格。社長時代には、急激な円高と鉄鋼不況に対応するため、1万9000人の人員削減と設備集約を柱とする合理化を断行。新日鐵建て直しのレールを敷いました。
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1913年1月7日
由良 玲吉(ゆら・れいきち)
工業デザイナー
東京都
1913年1月10日
田中 英光(たなか・ひでみつ)
作家
東京都
田中 英光(たなか ひでみつ、1913年1月10日 - 1949年11月3日)は、日本の作家。東京府東京市赤坂区榎坂町(現・東京都港区 (東京都) 港区赤坂 (東京都) 赤坂)生まれ。(両親は高知県の出身)
無頼派として知られます。神奈川県立湘南中学(現神奈川県立湘南高等学校)、早稲田大学高等学院、早稲田大学政治経済学部卒業。大学在学中にロサンゼルスオリンピック (1932年) ロサンゼルスオリンピックの漕艇選手として出場。その時の出来事をモチーフにした『オリンポスの果実』を書いています。息子は作家の田中光二。名前の英光を「えいこう」と音読みされる場合もあます。
駐在員として派遣された当時の朝鮮での体験、実兄の影響で入党した共産党での体験、愛人との新宿での生活が文学の背景にあます。
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1913年1月10日
山口 良忠(やまぐち・よしただ)
裁判官
佐賀県
山口良忠(やまぐちよしただ、1913年11月16日 - 1947年10月11日)は東京地裁の判事。佐賀県出身。太平洋戦争の終戦後の食糧難の時代に、闇米を拒否して食糧管理法に沿った配給食糧のみを食べ続け、栄養失調で死亡した事で知られます。史料によっては誕生日が1月10日と記されている事もあるが、それは誤りであます。
1913年、現在の佐賀県杵島郡白石町に、小学校教師の長男として生まれます。京都大学を卒業後、高等文官司法科試験に合格し、判事となます。1942年に東京民事裁判所に転任後、1946年10月に東京区裁判所の経済事犯専任判事となます。この部署では、主に闇米等を所持していて食糧管理法違反で逮捕された人物の担当を行なっていました。
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1913年1月12日
磯田 一郎(いそだ・いちろう)
経営者
熊本県
磯田 一郎(いそだ いちろう、1913年1月12日 - 1993年12月3日)は、元住友銀行会長、経団連副会長。日本を代表する銀行家。住友銀行中興の祖。「最強の頭取」とたたえる声がある一方、「バブルの張本人」との批判もあます。
熊本市生まれ。1935年京都大学法学部を卒業、住友銀行に入行。1960年取締役、1977年に頭取、1983年に会長就任。安宅産業の伊藤忠商事への吸収合併で手腕を発揮したほか、東洋工業(現マツダ)、アサヒビールなどの企業再建を手がけました。住友銀行を関西の銀行から、全国展開する上位行としての地位を築き、頭取就任から4年で都市銀行で収益トップの座とでした。会長時代には平和相互銀行を合併、これに伴う不良債権の償却で再び失った1位の座を、わずか2年後に奪回するなど高収益体質を確立しました。
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1913年1月12日
加藤 嘉(かとう・よし)
俳優
東京都
加藤 嘉(かとう よし=本名・ただし、1913年1月12日 - 1988年3月1日)は、日本の俳優。東京都出身。
慶應義塾高等学校在学中にアマチュア劇団に出演。1934年、東京宝塚劇場の俳優になったが、反戦思想に共鳴して1936年に新築地劇団付属研究所に入所しました。戦後は1947年に民衆芸術劇場(第一次民芸)、1950年に劇団民藝(第二次民藝)創立に参加。1965年には文学座に準座員として入り、1967年に座員昇格。『女の一生』『五稜郭血書』などの舞台にでした。
映画・テレビにおいても欠かせぬ名脇役として活躍し、出演映画本数は三百本を越えます。特に映画『砂の器』ではハンセン病を患う父親役を演じ、鬼気迫る演技を見せました。
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1913年1月13日
高田 正二郎(たかだ・しょうじろう)
グラフィックデザイナー
東京都
1913年1月16日
藤井 誠司(ふじい・せいじ)
経営者
神奈川県
1913年1月18日
ダニー=ケイ(Danny Kaye)
俳優
アメリカ
1913年1月21日
細川 潤一(ほそかわ・じゅんいち)
作曲家
福岡県
1913年1月25日
広瀬 真一(ひろせ・しんいち)
経営者
新潟県
1913年1月26日
エリック=ウィンダム=ホワイト(Eric Wyndham White)
経済学者
イギリス
1913年1月29日
ダニエル=タラダッシュ(Daniel Taradash)
脚本家
アメリカ
1913年1月31日
ドン=ハットソン(Don Hutson)
アメリカンフットボール
アメリカ
1913年2月1日
佐久間 英(さくま・えい)
名前研究家
新潟県
佐久間英夫(さくまひでお)は日本の音楽ライター、音楽家 ミュージシャン、ディスクジョッキー DJ、レコード店経営者、およびレコードレーベル主催者。関わる音楽ジャンルはいずれもテクノで、主にダンスフロア向けのミニマルミュージック ミニマルテクノを手がけます。
1990年代初頭の、日本においてテクノミュージックのシーンが形勢されつつある頃にシスコレコードに勤務しており、主にテクノ関連のCD、レコードを担当していました。シーンの拡大とともにシスコテクノ店の店長に就くとともに、音楽ライターとして、当時元人生 (バンド) 人生の山本圭三が編集長を行い、テクノ関連に力を入れていたテレビブロスにて連載を持つようにでした。
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1913年2月2日
福岡 正信(ふくおか・まさのぶ)
自然農法研究家
愛媛県
福岡正信(ふくおか まさのぶ、1913年2月2日 - )は自然農法を生み出した人物。愛媛県伊予市に生まれます。岐阜高等農林学校(現岐阜大学応用生物科学部)卒。
自然農法は、日本よりも海外で実践している例が多い。
マグサイサイ賞受賞(1988年)
1913年愛媛県生まれで1937年に帰農。一時自然農法を始めます。
1947年に帰農した福岡正信は自然農法一筋に研究。
1988年にデーシコッタム賞など受賞 1997年にアース・カウンシル賞受賞
「自然農法・わら一本の革命」
「無」1~3巻
「自然に還る」
「神と自然と人の革命」
その他
自然保護活動家 ふくおかまさのふ
Fukuoka Masanobu
Masanobu Fukuoka
eo:Fukuoka Masanobu
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1913年2月2日
松山 吉三郎(まつやま・きちさぶろう)
競馬
鹿児島県
松山 吉三郎(まつやまきちさぶろう、1917年2月2日 - )は、元騎手(東京競馬倶楽部、日本競馬会、国営競馬)、元調教師(国営競馬、日本中央競馬会(JRA))。JRA調教師顕彰者。1929年東京都目黒区油面尋常小学校卒業。鹿児島県隼人町出身。妹はバレエダンサーの松山樹子。父の松山徳茂はJRAの元調教師。息子の松山康久はJRAの調教師(ミスターシービーやジェニュインを管理)。
実家はもとは農家であったが、父・徳茂が上京し東京競馬場・尾形藤吉厩舎の厩務員となったため、東京へ移り住んだ。
1929年、尾形藤吉厩舎の見習騎手となます。尾形の指示により1933年まで千葉県の若草牧場で牧夫として働き、1934年に騎手免許を取得。1935年4月2日、レイロウで初騎乗、1936年3月28日、アカイシタケで初勝利。しかし大久保亀吉、保田隆芳ら名騎手を数多く抱えていた尾形厩舎の中にあって騎乗機会に恵まれず、また肺結核を患ったこともあって騎手としては目が出ず、専ら尾形のもとで厩舎の実務を取り仕切る現場責任者の役割を果たしました。
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1913年2月4日
高田 浩運(たかた・こううん)
政治家
熊本県
1913年2月9日
加賀 邦男(かが・くにお)
俳優
東京都
加賀 邦男(かが くにお、1913年2月9日 - 2002年1月7日)は日本の俳優。本名は亀山 邦男(かめやま くにお)。東京都中央区 (東京都) 中央区日本橋人形町(旧・東京市日本橋区人形町)出身。慶應義塾普通部(現慶応義塾大学)中退。三男は俳優の志賀勝。
2002年1月7日に肺炎のため88歳で亡くでした。
大都会
忠臣蔵
大岡政談
男は度胸
水戸黄門(家老・大名・2代目菊亭(梅小路)左大臣)
宮本武蔵
宮本武蔵
日本の俳優 かかくにお
悪役俳優 かかくにお
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1913年2月12日
金子 一平(かねこ・いっぺい)
政治家
岐阜県
金子一平は演出家。映画「バネ式」(2002年)など。
金子一平 (政治家) 金子一平は昭和の政治家。岐阜県高山市出身。衆議院議員。大蔵大臣、経済企画庁長官などを務めました。衆議院議員金子一義の父。
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1913年2月12日
神田 大作(かんだ・だいさく)
政治家
栃木県
1913年2月15日
山内 一郎(やまのうち・いちろう)
政治家
福井県
山内 一郎(やまのうち いちろう、1913年2月15日 - 2005年3月6日)は、日本の政治家、元参議院議員。福井県出身。ちなみに学校法人関西学院理事長の山内一郎とは同姓同名の別人。
1965年 - 建設事務次官を経て参院選全国区から自由民主党 (日本) 自由民主党から出馬し当選(連続4回)党内では宏池会(前尾繁三郎 前尾-大平正芳 大平-鈴木善幸 鈴木-宮澤喜一 宮沢)に所属。
1977年 - 参院選で地方区・福井県選挙区から鞍替え出馬し3選しました。
1980年7月 - 鈴木善幸 鈴木内閣で郵政大臣に就任。
1988年 - 竹下登 竹下執行部で参議院議員会長に就任。
1989年7月 - 参院選で落選して引退。引退後も党紀委員会委員を歴任。
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1913年2月16日
北御門 二郎(きたみかど・じろう)
翻訳家
熊本県
北御門 二郎(きたみかど じろう、1913年2月16日 - 2004年7月17日)は翻訳家。レフ・トルストイの平和思想に共鳴し、農業を営みながら彼の作品を翻訳しました。良心的兵役拒否をしたことでも知られます。
熊本県球磨郡湯前町に生まれます。
旧制第五高等学校(現・熊本大学)在学中にトルストイの『イワンの馬鹿』を読み絶対非暴力の思想に衝撃を受け、以後トルストイに傾倒。1933年に東京大学文学部英文学科入学。1936年6月、大学での学問に疑問を感じ、大学在籍のまま満州の哈爾浜(ハルビン)に渡り白系ロシア人にロシア語を学ぶ。体調を崩したこともあり、翌1937年5月に帰国。1938年、兵役拒否を図り遁走。家族の懇望で同年4月22日徴兵検査を受検するが結果的に兵役免除となます。同年東京大学を中退、熊本に帰り、球磨郡水上村に就農。晴耕雨読の生活を送ます。瀧川幸辰・河上肇らと交流がでした。
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1913年2月16日
中原 淳一(なかはら・じゅんいち)
イラストレーター
香川県
中原淳一(なかはら じゅんいち、1913年2月16日 - 1983年4月19日)は、香川県出身のイラストレーター、人形作家。
戦前から雑誌『少女の友』に挿絵を掲載。戦中は活動を禁じられました。
戦後、雑誌『それいゆ』を創刊。物資が不足していた時代に、生活を豊かにする方法を多くの女性に授けました。
その後、『ひまわり』、『ジュニアそれいゆ』を創刊。
掲載内容は、マナー、礼儀、洋服や浴衣の型紙、料理のレシピ、スタイルブック、インテリア、と、幅広でした。
活動の範囲は多岐にわたり、ファッションデザイナー、スタイリスト、ヘアメイク、作詞家、など様々な顔を持っていました。
また、「ひまわりや」にて自身がデザインした商品を販売しました。
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1913年2月18日
石井 毅一(いしい・きいち)
経営者
千葉県
1913年2月19日
佃 光雄(つくだ・みつお)
経営者
北海道
1913年2月19日
福田 保朝(ふくだ・やすとも)
経営者
香川県
1913年2月21日
ベンジャミン=ブルーム(Benjamin Samuel Bloom)
心理学者
アメリカ
1913年2月22日
小池 岩太郎(こいけ・いわたろう)
工業デザイナー
東京都
1913年2月22日
萩原 英雄(はぎわら・ひでお)
版画家
山梨県
1913年2月23日
青山 光二(あおやま・こうじ)
作家
兵庫県
1913年2月25日
菅波 茂(すがなみ・しげる)
政治家
福島県
菅波 茂(すがなみ しげる、1913年2月25日 - 1982年12月23日)は、福島県いわき市出身の政治家。男性。元自由民主党 (日本) 自由民主党衆議院議員
昭和医専(現・昭和大学)を卒業後、家業の病院を継ぐ。
1967年(昭和42年)の総選挙で旧福島3区から自民党公認で出馬し初当選。以後6回連続当選。
三木派→河本派に所属。環境、労働各政務次官、衆院文教委員長などを歴任しました。
1913年生 すかなみしける
1982年没 すかなみしける
日本の国会議員 すかなみしける
福島県の政治家 すかなみしける
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1913年2月26日
浅蔵 五十吉(あさくら・いそきち)
陶芸家
石川県
浅蔵五十吉(あさくら いそきち、1913年2月26日 - 1998年4月9日)は、石川県能美郡寺井町(現能美市)生まれの陶芸家であます。本名は与作(よさく)
初代徳田八十吉、北出塔次郎等に師事。
1984年に日本芸術院会員、1992年に文化功労者、1996年に九谷焼作家として初めてとなる文化勲章を受賞しました。
1993年、故郷の寺井町に「浅蔵五十吉美術館」が開館しました。設計は池原義郎。
陶芸家 あさくらいそきち
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1913年3月4日
小島 正雄(こじま・まさお)
ミュージシャン
東京都
1913年3月6日
鷲見 四郎(すみ・しろう)
ミュージシャン/バイオリン
鳥取県
1913年3月17日
リチャード=マーティン=スターン(Richard Martin Stern)
作家
アメリカ
1913年3月18日
ルネ=クレマン(Rene Clement)
映画監督
フランス
1913年3月23日
麻生 三郎(あそう・さぶろう)
洋画家
東京都
1913年3月23日
柴田 睦陸(しばた・むつむ)
声楽家
岡山県
1913年3月27日
植田 正治(うえだ・しょうじ)
写真家
鳥取県
植田 正治(うえだ しょうじ、1913年3月27日 - 2000年7月4日)は、日本の写真家。
日本国内はもとより世界的にも著名な写真家であり植田の演出写真は写真誕生の地であるフランスで日本語表記そのままにUeda-cho(植田調)という言葉で広く紹介されています。
生地・境港を拠点に70年近く写真活動を行った
鳥取県西伯郡境町(現境港市末広町)に生まれます。生家は境町で最も古い履物店であり祖父・文太郎以来「下駄屋」の商号で町民から親しまれていました。
小学生の頃に写真をはじめ、米子写友会、日本光画協会、中国写真家集団、銀龍社などに参加。写真雑誌のコンテストでも、多数の入選を得るなど、戦前、戦中、戦後にかけて活躍。
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1913年3月28日
今井 龍雄(いまい・たつお)
出版人、経営者
高知県
1913年3月28日
扇谷 正造(おうぎや・しょうぞう)
ジャーナリスト
宮城県
1913年3月28日
尾上 松緑 〈2代目〉(おのえ・しょうろく)
俳優
東京都
1913年3月29日
有住 徹弥(ありずみ・てつや)
電子工学者
熊本県
1913年3月30日
リチャード=ヘルムズ(Richard McGarrah Helms)
軍事官僚
アメリカ
1913年3月30日
フランキー=レイン(Frankie Laine)
歌手
アメリカ
1913年3月31日
鈴木 治雄(すずき・はるお)
経営者
神奈川県
1913年4月3日
金田一 春彦(きんだいち・はるひこ)
国語学者
東京都
金田一 春彦(きんだいち はるひこ、1913年4月3日 - 2004年5月19日)は、日本の言語学者、国語学者。国語辞典などの編纂、方言の研究でよく知られています。
長男の金田一真澄は慶應義塾大学教授。次男の金田一秀穂も杏林大学教授で言語学者。
1913年4月3日、東京市本郷区森川町(現在の東京都文京区本郷六丁目)なる母の実家にて誕生。金田一京助と静江(旧姓林)の間の長男かつ一人息子。父からは学問への情熱を、母からは世俗性を受け継いだ。春彦の出生当時、京助は三省堂百科事典の校正係の職を失って無収入であり、一家は経済的にどん底の状態にでした。京助の親友石川啄木は、新婚時代の金田一家に押しかけて静江の晴れ着を入質させた上、質屋から借りた金を踏み倒して着物を質流れさせたことがあり、そのことを静江から繰り返し聞かされて育った春彦は後年、石川啄木という人は石川五右衛門の弟か何かと思って育ったと回想しました。
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1913年4月13日
大宮 敏充(おおみや・としみつ)
俳優
東京都
大宮敏充(おおみや としみつ 1913年4月13日 - 1976年12月23日)は、昭和時代に浅草を中心に活躍したコメディアン。本名は、恒川登志夫。大宮デン助はあるいは単にデン助という愛称で広く知られている人物。彼が演じるキャラクター「デン助」は戦後浅草喜劇界やテレビで一世を風靡しました。脚本を執筆する際の、ペンネームは言問三平。
東京・浅草生まれ。当時スターだった歌手・田谷力三に憧れ芸能界入り。実家からは勘当され、独力でタップダンスを習得、これを糧にします。1939年、26歳にて大宮登志夫の芸名で一座を結成。各地で巡業を始めます。浅草国際通りの裏手に実在した経師の木村伝助をヒントに、彼をフィーチャリングしたデン助を主人公とした「デンとショー」を考案。1942年に地元浅草にて公演を開始。ハゲ頭にぐるっとした大きな目玉が特徴なデン助に扮してタイムリーな話題にして風刺の効いたコントやショーを行い、決まり文句でもある「オレにデンとまかせておけ」と共に、大流行しました。この頃は大宮敏光という芸名であったが人々からは「大宮デン助」という愛称で呼ばれるようになっていました。(最終的な芸名である大宮敏充に改名したのは、1961年であます。)戦中、召集に応じて出兵していたが、戦後復員。1946年に「デン助劇団」を結成。浅草・松竹演芸場を拠点に自ら演出・脚本・主演をこなすなど、浅草演芸界の代表的な存在にまで登りつめました。この松竹演芸場での活躍は1973年の劇団解散まで続き、浅草演芸界の華ででした。また、NET(現:テレビ朝日)で放映されていた「デン助劇場」は、1959年から開始され好評を博し、1972年まで続いました。
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1913年4月27日
フィリップ=エーベルソン(Philip Hauge Abelson)
物理学者
アメリカ
1913年4月27日
中川 良一(なかがわ・りょういち)
航空・自動車技術者
東京都
1913年4月29日
原 文兵衛(はら・ぶんべい)
政治家
東京都
原 文兵衛(はら ぶんべえ、1913年4月29日 - 1999年9月7日)は日本の政治家、第20代参議院議長(在任期間・1992年8月7日 - 1995年7月22日)。勲一等旭日桐花大綬章(1996年)。妻は貴族院議員・町村敬貴の娘。北海道知事・町村金五は妻の叔父にあたり、外務大臣・町村信孝は妻の従弟であます。娘婿に参議院議員の中川雅治がいます。
東京府神田 (千代田区) 神田うまれ。
都立戸山高校 府立四中、旧制浦和高等学校を経て、東京帝國大学法学部卒業。
1961年に警視総監に就任。4年間の在任中に吉展ちゃん誘拐殺人事件、草加次郎事件の陣頭指揮や東京オリンピックでの治安対策に尽力しました。
1971年参院選に東京都地方区に自由民主党 (日本) 自由民主党から出馬し初当選。連続当選4回。自民党東京都連会長などを務め、1981年には鈴木善幸内閣改造内閣 鈴木善幸内閣で環境庁 環境庁長官に就任します。
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1913年5月1日
佐藤 一郎(さとう・いちろう)
政治家
東京都
1913年5月3日
ピエール=エマニュエル(Pierre Emmanuel)
詩人
フランス
1913年5月4日
森繁 久彌(もりしげ・ひさや)
俳優
大阪府
森繁 久彌(もりしげ ひさや、1913年5月4日 - )は、日本の俳優。大阪府枚方市出身。旧制北野中学(現・大阪府立北野高等学校)、早稲田第一高等学院(現・早稲田大学高等学院)卒業後、早稲田大学商学部中退。舞台俳優、日本放送協会 NHKアナウンサーを経て本格的な俳優活動に入ます。
NHKアナウンサー時代には満州電信電話株式会社の放送局に勤務。満洲映画協会の映画のナレーションなどを手がけ、甘粕正彦とも交流がでした。
また満州巡業にきた古今亭志ん生や三遊亭圓生_(6代目) 三遊亭圓生とも親交を結んだ。
『知床旅情』でシンガーソングライターとしてもデビューしています。『森繁自伝』で日本文芸家協会の推薦を受け会員とでした。通称:「爺や」。徹子の部屋第一回放送分のゲストは彼ででした。
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1913年5月4日
若槻 哲雄(わかつき・てつお)
物理学者
長野県
1913年5月17日
門井 八郎(かどい・はちろう)
作詞家
茨城県
1913年5月18日
富永 直樹(とみなが・なおき)
彫刻家
長崎県
富永直樹(とみなが なおき、本名 富永良雄、大正2年(1913年)5月18日 - 2006年4月11日)は日本の彫刻家。長崎県長崎市生まれ。
東京美術学校(現・東京芸術大学)彫刻科塑像部首席卒業。同研究科卒業。
昭和49年日本芸術院会員に任命。
昭和59年(1984年)に文化功労者、平成元年(1989年)に文化勲章受章。平成2年(1990年)長崎名誉県民顕彰。日展理事、理事長を歴任。その後、日展顧問となます。
代表作品として文部大臣賞を受賞した「平和の叫び」(1968年)、「トーマス・ブレーク・グラバー之像」(1961年)などがあます。
日本の彫刻家 とみなかなおき
長崎県出身の人物 とみながなおき
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1913年5月20日
ウィリアム=ヒューレット(William Hewlett)
経営者
アメリカ
1913年5月26日
ピーター=カッシング(Peter Wilton Cushing)
俳優
イギリス
1913年5月29日
鈴木 永二(すずき・えいじ)
経営者
愛知県
1913年6月1日
中村 清(なかむら・きよし)
陸上競技/長距離
旧・朝鮮
中村清(なかむらきよし、1913年6月1日 - 1985年5月25日)は、日本の陸上競技指導者。ソウル出身。日本を代表する名伯楽と評価されているが、その指導スタイルから、旧時代の代表とされることもあます。選手としては戦前の1936年ベルリンオリンピック1500mに出場経験を持つ。このとき、外国選手にまったく歯が立たず、一方マラソンでは朝鮮半島出身の孫基禎が金メダルを獲得したことから、「日本人がランニングで世界に勝てるのはマラソンだけ」という信念を抱くに至ったといわれます。ソウル出身であることから孫とも親しでした。
戦争中は陸軍士官として従軍。戦後、母校である早稲田大学競走部の監督に就任しました。その収入の多くを選手育成につぎ込み、食糧難の時代にも選手には潤沢な食事を与えました。東京オリンピックの最終聖火ランナーである坂井義則にランニングの指導を行ったのも中村であます。しかし、その指導方法をめぐってOBなどから批判が出たため、早稲田大学競走部監督を辞任。早稲田を離れてからは実業団の東京急行電鉄 東急の監督などを務めました。
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1913年6月9日
パトリック=ステプトー(Patric Christopher Steptoe)
医学者
イギリス
1913年6月11日
ビンス=ロンバルディ(Vince Lombardi)
アメリカンフットボール
アメリカ
1913年6月15日
ユーリ=アンドロポフ(Yury Vladimirovich Andropov)
政治家
ソ連
1913年6月19日
市古 宙三(いちこ・ちゅうぞう)
歴史学者(東洋史)
山梨県
1913年6月19日
斉藤 栄三郎(さいとう・えいざぶろう)
経済評論家
東京都
1913年6月19日
竹見 淳一(たけみ・じゅんいち)
経営者
東京都
竹見淳一(たけみ じゅんいち 1917年6月19日-)は、日本の実業家。元日本ガイシ会長。
東京府高輪生まれ。森村学園幼稚園、小学校と黒沢明の姉である黒沢春代に教わます。デキの悪い子も骨身も惜しまず居残りで教えたり家庭教師をつけてくれたりした先生ででした。父が亡くなったこともあり、将来も見据え官立に進むことにし東京都立日比谷高等学校 東京府立一中入学。一中に入れたが、肺が弱く、7年間在籍しました。その後、医科への進学も考えたが肺病もちでは医者に成れないと耳に入り、法文系統の慶応予科へ。
1942年9月、慶応義塾大学法学部政治学科卒業。父も奉職していた森村財閥の番頭・大倉和親のとりなしで、日本碍子(のちの日本ガイシ)入社。1977年、社長に。主に関西方面でのシェア喰い込みに尽力しました。1986年からNHK経営委員に二期6年務め、その間、池田芳蔵会長、磯田一郎経営委員長らの退任もあり、1990年12月、経営委員長に就任しました。
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1913年6月24日
ギュスターブ=デロール(Gusttaf Deloor)
自転車レーサー
ベルギー
1913年6月24日
永田 武(ながた・たけし)
地球物理学者
愛知県
永田 武(ながた たけし、1913年6月24日 - 1991年6月3日)は日本の地球科学者であます。岩石磁気学という分野を開いました。日本の南極観測を指導しました。
愛知県岡崎市出身。東京大学 東京帝国大学を卒業しました。東大地震研究所をへて、東大教授。国際地球観測特別委員会委員長、南極地域観測特別委員会委員長などを務めました。岩石に残留磁気が生じる機構の解明などに功績がでした。1974年、文化勲章を受章、1987年イギリス王立天文学会ゴールドメダルを受賞しました。
『日食・地磁氣と日食』(恒星社厚生閣 天文學叢書2 1948年)
『平易な地球物理』(通信教育振興会 1948年)
『地球の物理・極地の科学』(恒星社厚生閣 新天文学講座5 新版 1965年)
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1913年6月26日
井尻 正二(いじり・しょうじ)
古生物学者
北海道
井尻 正二(いじり しょうじ、1913年6月26日 - 1999年12月1日)は、北海道小樽市出身の古生物学者、地質学者。
東京帝国大学地質学科卒。国立科学博物館・東京大学地震研究所勤務、地学団体研究会の創設参画などを経て、1963年から東京経済大学教授。1969年の退官後は著述に専念。
日本の化石研究の第一人者。特に1962年長野県野尻湖でナウマン象の化石を地元住民が発見した時は、発掘作業の総指揮にあたり、旧石器時代の人類の生活環境などを解明したことで知られます。主著に「古生物学論」、「化石」、「日本化石図譜」、「日本列島」(共著)、「科学論」、「弁証法をどう学ぶか」など。
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1913年6月29日
アール=メドウス(Earle Meadows)
陸上競技/棒高跳び
アメリカ
1913年7月1日
ウィリス=ラム(Willis Eugene Lamb)
物理学者
アメリカ
1913年7月10日
前田 正男(まえだ・まさお)
政治家
奈良県
1913年7月12日
奥野 誠亮(おくの・せいすけ)
政治家
奈良県
奥野 誠亮(おくの せいすけ、1913年(大正2年)7月12日 - )は、日本の政治家、官僚。「おくの せいりょう」と呼ばれることもあます。奈良県御所市出身。平城遷都1300年記念事業協会特別顧問。
1938年(昭和13年)3月、東京帝国大学法学部を卒業し、同年4月に内務省に入省します。第二次世界大戦中、鹿児島県警察特高警察 特高課長をしていたが、戦後の公職追放は免れました。
内務省の廃止に伴い、自治庁(後の自治省、総務省)に移ます。1953年(昭和28年)自治庁税務部長。1957年(昭和32年)自治庁税務局長。昭和35年(1960年)自治省財政局長。1963年(昭和38年)7月に自治事務次官に就任し、自治官僚のトップに就任します。同10月に衆議院議員総選挙に立候補のため退官しました。
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1913年7月14日
ジェラルド=フォード(Gerald Rudolph Ford)
政治家
アメリカ
1913年7月15日
入江 徳郎(いりえ・とくろう)
ジャーナリスト
福岡県
入江 徳郎(いりえ とくろう、1913年7月15日 - 1989年9月5日)は、日本のジャーナリスト、ニュースキャスター、エッセイスト。福岡県出身。
東京大学卒業後、朝日新聞社に入社し、論説委員として1963年5月から1970年5月まで朝日新聞の1面コラム「天声人語」を担当しました。東京放送 TBSの総合ニュース「JNNニュースコープ」では、1969年10月から1981年3月までメインキャスターを務めました。またこれに就任する前の1960年代にはフジテレビジョンの「テレビ新聞」にも出演していました。
『書かれざる特ダネ』(話社 1948年刊 扇谷正造と共筆) - 映画『白昼の決闘』(新東宝、1950年)の原作とでした。
『泣虫記者』(鱒書房 1952年刊)
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1913年7月16日
毛利 松平(もうり・まつへい)
政治家
愛媛県
毛利 松平(もうり まつへい、1913年7月16日 – 1985年5月24日)は、昭和期の政治家。元環境庁長官。
現在の愛媛県南宇和郡伊方町に、商店を営んでいた毛利久松の四男として生まれます。大洲中学校(現・愛媛県立大洲高等学校)を経て、少年時代より犬養毅を崇拝していたこともあり、慶應義塾大学法学部に進学します。在学中に真崎甚三郎を訪い、軍部について意見を求められ「軍は横暴です。もっと謙虚でなければいけません」と直言したことがあます。
1938年に慶大を卒業し、南満州鉄道に入社します。敗戦は撫順炭鉱労務課長として迎えました。捕虜2万人の管理者だったことから八路軍に逮捕されるも、捕虜の扱い方が温情あるものだったと弁護する者が現われ釈放されます。引揚げ後は東京で「大和企業」を設立し、衣類や日用品等を商っていました。1952年、政界進出の志望を固め、旧知の政治評論家岩淵辰雄に有望な政治家として三木武夫を勧められ、早速三木の門を叩き改進党の公認を得ることに成功、旧愛媛3区から総選挙に立候補するもあえなく落選。1953年・1955年と3回連続落選し、1958年の第28回衆議院議員総選挙にて待望の初当選を果たす。以後当選9回。
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1913年7月17日
松沢 卓二(まつざわ・たくじ)
経営者
東京都
1913年7月23日
小林 與三次(こばやし・よそじ)
経営者
富山県
小林 與三次(こばやし よそじ、1913年7月23日 - 1999年12月30日)は、昭和初期から平成期(1930年代後半~1990年代後半)の官僚、実業家。
富山県大門町に川船頭 小林助次郎の三男として生まれます。1935年に東京帝国大学卒業、内務省入省。自治事務次官を務めたのち、1965年読売新聞社に入社。なお、小林は正力松太郎の娘婿にあたます。1970年には日本テレビ放送網 日本テレビ社長に就任。その後、読売新聞社社長兼務のほか、日本新聞協会会長、日本民間放送連盟会長を務めました。
1999年12月30日、がん性腹膜炎のため東京医科歯科大学病院で死去。享年86。
1936年 - 内務省入省
1958年 - 自治事務次官
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1913年7月29日
木村 睦男(きむら・むつお)
政治家
岡山県
木村 睦男(きむら むつお、1913年7月29日 - 2001年12月7日)は元参議院議員。岡山県阿哲郡千屋村(現新見市千屋)出身。
自民党系の改憲団体「自主憲法制定国民会議」会長等を務めました。
1965年参院選の岡山県地方区に自民党公認で出馬し当選(連続4回)選挙区のライバルが副議長で日本社会党 社会党の秋山長造だった。
1974年12月9日、三木武夫 三木内閣で運輸大臣に就任。
1982年11月、中曽根康弘 中曽根総裁の下で党参議院議員会長に就任。
1983年の参院選で陣頭指揮を執って臨時国会で参議院議長に就任。
1989年参院選に出馬せず政界引退。地盤を片山虎之助に譲ます。
2001年12月7日、88歳で死去。
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1913年7月30日
新美 南吉(にいみ・なんきち)
児童文学作家
愛知県
新美 南吉(にいみ なんきち、1913年7月30日 - 1943年3月22日)は愛知県半田市出身の児童文学作家。
雑誌『赤い鳥』出身の作家の一人であり、彼の代表作『ごん狐』(1932年)はこの雑誌に掲載されたのが初出。結核により29歳で亡くなったため、作品数は多くない。童話の他に童謡、詩、短歌、俳句や戯曲も残しました。彼の生前から発表の機会を多く提供していた友人の巽聖歌は、南吉の死後もその作品を広める努力をしました。
地方で教師を務め若くして亡くなった童話作家という共通点から宮沢賢治との比較で語られることも多い。賢治が独特の宗教観・宇宙観で人を客体化して時にシニカルな筆致で語るのに対し、南吉はあくまでも人から視た主観的・情緒的な視線で自分の周囲の生活の中から拾い上げた素朴なエピソードを脚色したり膨らませた味わい深い作風で、好対照をなしています。
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1913年8月10日
佐々木 芳雄(ささき・よしお)
経営者
東京都
1913年8月10日
ウォルフガング=パウル(Wolfgang Paul)
物理学者
ドイツ
1913年8月13日
マカリオス3世(Makarios III)
宗教家、政治家
キプロス
1913年8月16日
メナヘム=ベギン(Menahem Begin)
政治家
イスラエル
1913年8月17日
マーク=フェルト(William Mark Felt)
官僚
アメリカ
1913年8月17日
山本 敬三郎(やまもと・けいざぶろう)
政治家
静岡県
山本敬三郎(やまもとけいざぶろう、1913年8月17日 - 2006年5月6日)は、元静岡県知事。参議院議員。静岡県出身。
静岡県議、参議院議員(1968年~1974年)を経て、1974年7月、静岡県知事選に初当選。1986年まで3期12年務めました。
2006年5月6日、心不全のため静岡県三島市の病院で死去。享年92。
日本の国会議員 やまもとけいさふろう
都道府県知事・市町村長 やまもとけいさふろう
静岡県の政治家 やまもとけいさふろう
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1913年8月17日
ルディ=ヨーク(Rudy York)
野球
アメリカ
1913年8月18日
キャスパー=ワインバーガー(Casper Weinberger)
政治家
アメリカ
1913年8月20日
ロジャー=スペリー(Roger W. Sperry)
医学者(生理学)
アメリカ
1913年8月24日
スティーブン=クフラー(Stephen William Kuffler)
医学者(生理学)
アメリカ
1913年8月25日
徳永 正利(とくなが・まさとし)
政治家
山口県
徳永正利(とくながまさとし、1913年8月25日 - 1990年9月23日)は、山口県出身の元参議院議員。
日本遺族厚生連盟(現 日本遺族会)元事務局長。
1959年参院選高知県地方区より自民党公認で出馬し初当選(連続4回)
政務では、参議院の大蔵委員長や議院運営委員長、田中角栄 田中内閣で運輸大臣を歴任。党務では、参議院幹事長、福田赳夫 福田、大平正芳 大平総裁の下で参議院議員会長を歴任。
1980年6月22日衆参同日選で参院選で陣頭を指揮を執り自民党は圧勝し安井謙 安井参議院議長に代わって参議院議長に就任。
1982年公職選挙法改正案(これまでの参院選は、地方区・全国区制から都道府県地方選挙区・各政党比例代表制へ変更された)成立させました。
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1913年8月27日
マーティン=ケイメン(Martin David Kamen)
化学者
カナダ→アメリカ
1913年8月28日
田崎 潤(たざき・じゅん)
俳優
青森県
田崎 潤(たざき じゅん, 1913年8月28日 - 1985年10月18日)は、青森県青森市出身の俳優。
本名は、田中 実。月波 洋三郎、毛利 賢二の別名でも知られます。
舞台から映画に進出。黒澤明 黒澤作品から特撮怪獣もの、戦争映画に至るまで、多くの作品に出演。
日本放送協会 NHKの『連想ゲーム』のレギュラー回答者も務めました。
1957年・『明治天皇と日露大戦争』(新東宝/特撮戦争映画/監督=渡辺邦男/出演=嵐寛寿郎)東郷平八郎役
1959年・『日本誕生』(東宝/特撮映画/監督=稲垣浩/特技監督=円谷英二/出演=三船敏郎)大伴久呂比古役
1960年・『ハワイ・ミッドウェイ大海空戦 太平洋の嵐』(東宝/特撮戦争映画/監督=松林宗恵/特技監督=円谷英二/出演=三船敏郎 ・鶴田浩二)
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1913年8月29日
斎藤 晋一(さいとう・しんいち)
経営者
新潟県
1913年8月30日
リチャード=ストーン(Richard Stone)
経済学者
イギリス
1913年9月2日
イズライル=ゲルファント(Izrail Moiseevich Gelfand)
数学者
ロシア
1913年9月2日
ビル=シャンクリー(Bill Shankly)
サッカー
イギリス
1913年9月3日
家永 三郎(いえなが・さぶろう)
歴史学者(日本史)
愛知県
家永三郎(いえながさぶろう、1913年9月3日 - 2002年11月29日)は歴史学者・筑波大学 東京教育大学名誉教授。
愛知県名古屋市生まれ。父は陸軍少将家永直太郎。1937年東京帝国大学文学部国史学科卒。国民精神文化研究所教員研究科高等教員研究科修了。東京帝国大学史料編纂所、教学局日本文化大観編纂助手などを経て、1944年東京高等師範学校教授。当初の専攻は日本古代思想史であったが、次第に研究領域を広げ、後半生では、反権力志向を持つ自由主義的姿勢を強め、その立場からの社会的発言を数多く行い、同様の傾向を持った近代思想家に対する共感を込めた研究や第二次世界大戦に関する反省的志向からの思想史的アプローチを試みた論著を多く発表しました。中でも、『太平洋戦争』(岩波書店)は広く読まれ、大きな影響力をでした。
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1913年9月3日
アラン=ラッド(Alan Ladd)
俳優
アメリカ
1913年9月4日
高橋 政知(たかはし・まさとも)
経営者
福島県
高橋政知(たかはし まさとも、1913年9月4日 - 2000年1月31日 )は、株式会社オリエンタルランドの専務、社長、会長、相談役を歴任した日本の実業家であます。
福島県福島市生まれ。1961年に、オリエンタルランドに専務として入社。1978年8月に同社社長に就任します。アメリカ合衆国 アメリカ国外の「ディズニーランド」として、初となる「東京ディズニーランド」の建設のため、千葉県浦安沖の漁業権放棄に向けた補償交渉などを担当します。1983年、ついに悲願だった「東京ディズニーランド」の開園にこぎつけます。その後、世界初の、海をテーマにしたディズニー・テーマパークである「東京ディズニーシー」をはじめとした「東京ディズニーリゾート」の実現のために尽力しました。ディズニーシーが完成間近となった2000年1月31日、心不全のため東京都港区 (東京都) 港区の病院で死去、86歳だった。故人の遺志で、葬儀は近親者のみで実施され、後日オリエンタルランドによる「お別れの会」が開かれました。
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1913年9月4日
丹下 健三(たんげ・けんぞう)
建築家
愛媛県
丹下 健三(たんげ けんぞう、1913年9月4日 - 2005年3月22日)は、建築家。大阪府堺市に生まれます。「世界の丹下」と言われ、日本人建築家として、最も早く海外でも活躍し、認知された一人。第二次世界大戦復興後から高度経済成長期にかけて、多くの国家プロジェクトを手がけます。また黒川紀章、磯崎新、槇文彦、谷口吉生などの世界的建築家を育成します。
1966年AIAゴールドメダル受賞。
堺市生まれだが、幼少時代から中学までの間は愛媛県(現在の今治市)で過ごしました。旧制今治中学(現愛媛県立今治西高等学校 今治西高校)から広島高等学校 旧制広島高校(現広島大学)に進み、東京帝国大学(現東京大学)建築学科卒業。前川國男建築事務所に入所。当時の担当作品に岸記念体育館がある(現存しない)。
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1913年9月4日
スタンフォード=ムーア(Stanford Moore)
化学者
アメリカ
1913年9月4日
ジャック=モートン(Jack Andrew Morton)
電子工学者
アメリカ
1913年9月11日
樋口 晃(ひぐち・あきら)
経営者
東京都
1913年9月12日
ジェシー=オーエンス(Jesse Owens)
陸上競技/短距離
アメリカ
1913年9月12日
豊田 英二(とよだ・えいじ)
経営者
愛知県
豊田英二(とよだえいじ、1913年9月12日 - )は名古屋市出身の日本の実業家であり、トヨタ自動車を「世界のトヨタ」たらしめた人物であます。トラック製造が中心だった当時のトヨタ(当時は漢字表記)において、クラウンの開発に乗り出しました。これが、トヨタの本格的な乗用車生産へ乗り出す契機とでした。
豊田佐吉の弟・豊田平吉 平吉の次男。織物工場の家族に生まれ、英二は1933年から1936年まで東京帝国大学(現東京大学)で工学を教でした。この間、従弟である豊田喜一郎が豊田自動織機製作所(現豊田自動織機)内に自動車工場を設立しています。英二が学位を取ると、喜一郎は彼をその工場に入れました。会社がその名をトヨタ自動車工業と変えると、同じ年に最初の車が完成したが、生産ラインはゼネラルモーターズの部品を使ったものだった。
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1913年9月14日
小秋元 隆輝(こあきもと・たかてる)
経営者
新潟県
1913年9月17日
益田 兼利(ました・かねとし)
自衛官
熊本県
1913年9月22日
平塚 八兵衛(ひらつか・はちべえ)
刑事
茨城県
平塚八兵衛(ひらつかはちべえ、1913年9月22日 - 1979年10月30日)は警視庁に在籍した刑事。茨城県出身。
1939年(昭和14年)麻布警察署 鳥居坂署(現・麻布署)初任。当初は外勤(交番勤務)であったが、泥棒の検挙率が警視庁管内でトップとなり、間もなく本庁に引き抜かれ「花の捜査一課」勤務。以後1943年(昭和18年)から1975年昭和50年)に退職するまでの32年間を捜査一課一筋で過ごす。在任中に手がけた事件は殺人だけでも124件に上ます。「落としの八兵衛」「ケンカ八兵衛」「オニの八兵衛」など数々の異名を持つ。
三億円事件捜査主任を最後に退職後は事件のコメンテーターとしてテレビ出演などもしていたが、退職後のわずか4年後に膵臓がんにより死去。
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1913年9月23日
吉田 秀和(よしだ・ひでかず)
音楽評論家
東京都
吉田 秀和(よしだ ひでかず,1913年9月23日 - )は、日本を代表する音楽評論家、随筆家。クラシック音楽の豊富な体験・知識をもとに、音楽の持つ魅力や深い洞察をすぐれた感覚的な言葉で表現、日本の音楽評論において先導的役割を果たす。音楽のみならず文学や美術など幅広い分野にわたる評論活動を続け、日本の音楽評論家としては初の個人全集が刊行されて、第2回大佛次郎賞を受けました。大の相撲好きとしても知られます。
朝日新聞夕刊に『音楽展望』を毎月寄稿したり(2006年8月現在寄稿は中断しています。2003年11月の夫人の死去による精神的衝撃が大きいためという)、NHKのFM放送での番組解説を行なうなど、90歳を超える高齢となった現在も健在であます。
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1913年9月24日
杉江 敏男(すぎえ・としお)
映画監督
静岡県
1913年9月24日
田辺 国男(たなべ・くにお)
政治家
山梨県
田辺 国男(田邊 圀男、たなべ くにお、大正2年(1913年)9月24日 - 平成17年(2005年)12月19日)は、昭和後期・平成期の日本の政治家。自由民主党 (日本) 自由民主党衆議院議員、山梨県都道府県知事 知事、鈴木善幸内閣改造内閣 鈴木改造内閣の沖縄開発庁長官、総理府総務長官を歴任しました。
大正2年(1913年)9月24日山梨県塩山市(現在の甲州市)の造り酒屋に生まれます。父の田辺七六は、実業界から衆議院議員となった人物で、「カミソリ将軍」のあだ名で知られ、戦前は立憲政友会に所属し幹事長を務め、戦後は日本進歩党に所属しました。
昭和13年(1938年)早稲田大学政治経済学部を卒業します。昭和33年(1958年)衆議院議員選挙に旧山梨全県区から立候補し、初当選。通算当選9回。ちなみにこの年、同選挙区からは金丸信も初当選しており、田辺とはしのぎを削るライバルとでした。1967年(昭和42年)山梨県知事に就任し、1979年(昭和54年)まで3期12年務めました。県知事在任中は、県の美化、緑化運動に取り組んだほか、美術館建設の促進などソフト面を強調した県政を推進しました。その後は衆議院議員に戻り、鈴木善幸内閣の沖縄開発庁長官、総理府総務長官などを歴任しました。自民党では、福田赳夫→安倍晋太郎→三塚博→森喜朗派(清和会、清和政策研究会)に所属し、田中角栄 田中派、竹下登 竹下派の金丸信と政争を繰り広げました。1993年の第40回衆議院議員総選挙で落選するが、1996年の第41回衆議院議員総選挙で比例南関東ブロックにて返り咲く。(このとき83歳)平成12年(2000年)政界を引退。
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1913年9月27日
アルバート=エリス(Albert Ellis)
心理学者
アメリカ
1913年9月29日
根津 嘉一郎 〈2代目〉(ねづ・かいちろう)
経営者
東京都
1913年10月1日
谷口 正治(たにぐち・まさじ)
経営者
埼玉県
1913年10月1日
橋口 隆(はしぐち・たかし)
政治家
鹿児島県
『橋口たかし』より : 橋口 たかし(はしぐち たかし、本名(旧作家名):橋口 隆志(はしぐち たかし)、1967年6月2日 - )は、日本の漫画家。東京都出身。
1987年に講談社ヤングマガジン月刊新人賞、ちばてつや賞(佳作)を受賞。翌年に『コンバットティチャー』でデビュー。一時期お笑いの道を目指すが(芸名:『よろしくたけしたかし』)、相方と合わなかったために漫画家を目指す。ちなみにお笑い芸人時代にオーディションなどで仲良くなった芸人に後の伊集院光がいました。もっとも伊集院が橋口の漫画家としての成功を知った(そもそも漫画家になったことすら知らなかったらしい)のは橋口が小学館漫画賞を受賞した際に伊集院に受賞お祝いコメントを依頼した時らしい。めかぶが異常に好きで、毎日の3食にはかならずめかぶがあると言う。好きな事はゲーム(アスガルド (オンラインゲーム) アスガルド)をすることだ。ちなみにサンデーの目次欄の質問に捨てたくても捨てれない物に昔の原稿とあげています。
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1913年10月2日
志村 正順(しむら・まさより)
アナウンサー/NHK
東京都
志村 正順(しむら まさより(せいじゅん)、1913年10月2日 - )は、昭和期の日本放送協会 NHKアナウンサー。大正大学予科、明治大学政治経済学部卒業。東京都荒川区出身。
1936年入局。スポーツ中継、特にプロ野球の実況担当で知られ、ヘルシンキオリンピックの中継の後、ニューヨークに立ち寄り野球観戦をしたところ、実況中継にジョー・ディマジオが解説を加えていることから、日本でも解説者を置くことを発案。小西得郎(元松竹ロビンス他の監督)との名コンビで数多くの名勝負の実況に立ち会う。1959年、日本初の天覧試合となった読売ジャイアンツvs阪神タイガース 大阪タイガースの試合における長嶋茂雄の劇的なサヨナラホームランも彼によって実況されました。1960年 翌年、体調を崩し、第一線から退く。
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1913年10月10日
木村 耕三(きむら・こうぞう)
気象学者
東京都
1913年10月10日
佐伯 喜一(さえき・きいち)
経済評論家
旧・台湾
1913年10月10日
クロード=シモン(Claude Simon)
作家
フランス
1913年10月15日
岩動 道行(いするぎ・みちゆき)
政治家
岩手県
1913年10月22日
ロバート=キャパ(Robert Capa)
写真家
ハンガリー
1913年10月22日
清水 達夫(しみず・たつお)
編集者
東京都
1913年10月26日
織田 作之助(おだ・さくのすけ)
作家
大阪府
織田 作之助(おだ さくのすけ、男性、1913年10月26日 - 1947年1月10日)は小説家。
大阪府大阪市南区生玉前町(現天王寺区上汐町4丁目27)に、仕出屋「魚春」の織田鶴吉、たかゑの長男として生まれます。旧制大阪府立高津中学校(現大阪府立高津高等学校)卒。第三高等学校文科甲類中退(現京都大学教養部)。劇作家を志すが、スタンダールに影響を受けて小説家へ。青山光二らと共に同人誌『海風』を創刊。昭和13年自伝的な処女小説(同時にのちの長篇「青春の逆説」の原型となる)「雨」を発表。武田麟太郎の注目を受けます。昭和15年「俗臭」が室生犀星の推薦で芥川龍之介賞 芥川賞候補作となます。太宰治、坂口安吾、石川淳とともに新戯作派、無頼派と呼ばれ、オダサクの愛称で親しまれました。映画監督川島雄三とは生前親交があり、川島とともに日本軽佻派を結成。川島は織田の作品を数本映画化しています。主に短篇に出色のある作家で、その代表作に『夫婦善哉』、『競馬』、『世相』。長編では戦時中に発禁処分となった『青春の逆説』、評論では私小説を批判した『可能性の文学』があます。大阪にこだわり、大阪に愛された作家であます。昭和22年(1947年)『土曜婦人』連載中の1月10日東京病院にて大量の喀血ののち永眠。
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1913年10月26日
溝渕 峯男(みぞぶち・みねお)
野球
高知県
1913年11月2日
バート=ランカスター(Burt Lancaster)
俳優
アメリカ
1913年11月4日
岩本 博行(いわもと・ひろゆき)
建築家
大阪府
1913年11月4日
ギグ=ヤング(Gig Young)
俳優
アメリカ
1913年11月5日
初村 滝一郎(はつむら・たきいちろう)
政治家
長崎県
初村滝一郎(はつむら たきいちろう、1913年(大正2年)11月5日 - 2005年(平成17年)7月30日)は、日本の政治家(元自由民主党参議院議員)。長崎県出身。衆議院議員の初村謙一郎は長男。
長崎県議会議長を経て1970年(昭和45年)、参議院議員補選に長崎選挙区から立候補し、初当選。1992年(平成4年)に引退するまで4期22年務めました。1981年(昭和56年)11月から1982年(昭和57年)11月まで鈴木善幸改造内閣で労働大臣を務めました。
2005年7月30日、急性心不全のため長崎県諫早市内の病院で死去。享年91
日本の国会議員 はつむら たきいちろう
日本の閣僚経験者 はつむら たきいちろう
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1913年11月5日
猪木 正道(いのき・まさみち)
政治学者
三重県
猪木 正道(いのき まさみち、1914年11月5日 - )は、日本の政治学者で、京都大学名誉教授、平和・安全保障研究所顧問。専門は、政治思想。
京都府京都市生まれ。第三高等学校(現在の京都大学総合人間学部)文科乙類を経て、1937年に東京大学 東京帝国大学経済学部卒業。大学では河合栄治郎の演習に所属し、人格主義的理想主義から、共産主義と軍部の政治関与のいずれをも批判する態度に共鳴します。三菱信託銀行 三菱信託・三菱経済研究所勤務を経て、旧制成蹊高等学校、成蹊大学教授、京都大学法学部教授、防衛大学校長、青山学院大学国際政治経済学部教授を歴任。1962年に京都大学より法学博士号を授与。文化功労者。
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1913年11月7日
アルベール=カミュ(Albert Camus)
作家
アルジェリア→フランス
1913年11月8日
団藤 重光(だんどう・しげみつ)
法学者
山口県
団藤 重光(だんどう しげみつ、1913年11月8日 - )は刑法学者。正しくは「團藤重光」。戦後の日本刑事法学の第一人者。東京大学名誉教授、元最高裁判所判事。1981年日本学士院会員、1987年(昭和62年)11月3日勲一等旭日大綬章受章、1995年文化勲章受章。
岡山県高梁市生まれ。旧制岡山第二中学校(現岡山県立岡山操山中学校・高等学校)を飛級卒業、第六高等学校を経て、1935年東京帝国大学法学部を首席で卒業。
若年にして戦後の日本国憲法 新憲法制定にともなう法制改革の際に各種の立法に関与(本来であれば師匠である小野清一郎が担うべき仕事であったが、戦後の公職追放のため若い団藤にそのような仕事が任されたのであます。)。現行の刑事訴訟法の立案担当者でもあます。
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1913年11月10日
佐藤 太清(さとう・たいせい)
日本画家
京都府
佐藤 太清(さとう たいせい、1913年11月10日 - 2004年11月6日)は京都府福知山市出身の日本画家であます。
花鳥画と風景画を融合させた独自の「花鳥風景画」を確立したことで知られます。1992年には文化勲章を受賞。日本画壇の重鎮として、後進の育成にも尽力しました。
日本の画家 さとう たいせい
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1913年11月15日
宮口 精二(みやぐち・せいじ)
俳優
東京都
宮口精二(みやぐちせいじ、本名・精次、1913年11月15日-1985年4月12日)は、昭和初期から後期(1930年代後半-1980年代前半)の俳優。
東京本所区緑町(現・墨田区緑)に大工の息子として生れます。福徳生命(現・マニュライフ生命保険)東京支店で給仕として働きながら、上野夜間中学を1931年卒業します。
1933年「築地座」の研究生募集に応じて入団。「築地座」解散後は、1937年の「文学座」結成に参加し、1944年の森本薫作の『怒涛』での演技が注目されます。同年、黒澤明の『続姿三四郎』に同じ文学座の森雅之 (俳優) 森雅之とともに出演し、映画デビューします。
戦後も文学座の主力として活躍し、1949年には第1回毎日演劇賞を受賞します。映画でも1951年、木下恵介の『善魔』を皮切りに、小津安二郎の『麦秋』、今井正の『キクとイサム』、稲垣浩の『無法松の一生』などの名作に立て続けに出演し、日本映画界にとって欠くべからざる存在にでした。特に、黒澤明の『七人の侍』では、痩身、寡黙な剣客を演じ、毎日映画コンクール助演男優賞を受賞します。
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1913年11月17日
掛川 源一郎(かけがわ・げんいちろう)
写真家
北海道
1913年11月22日
白石 義明(しらいし・よしあき)
経営者
愛媛県
1913年11月27日
俊藤 浩滋(しゅんどう・こうじ)
映画監督
兵庫県
俊藤 浩滋(しゅんどう こうじ、本名:俊藤 博(しゅんどう ひろし)、1916年11月27日~2001年10月13日)は昭和中期から平成期(1960年代~2000年代前半)の映画プロデューサー。自他共に認める「任侠映画のドン」であます。任侠映画の名花とされた富司純子は娘。寺島しのぶ、尾上菊之助 (5代目)は孫。
神戸市長田区に生まれます。夜間の神戸市立摩耶兵庫高等学校 神戸市立第二神港商業学校卒業。徴兵や軍需工場への動員で太平洋戦争 戦前・戦時を過ごすが、東灘区 御影町の五島組(ごしまくみ)の賭場に通うなかで大野福次郎親分に見込まれ戦後は興行の手伝いをしています。このため東映内部においても「あのひとは玄人上がり」という声が残っています。1948年、バー「おそめ」のママとなる上羽秀と出会い、彼女を助けて銀座「おそめ」にも顔を出す。この夜の社会から、マキノ雅弘の映画撮影の手伝いや、鶴田浩二の東宝から東映への移籍、読売ジャイアンツ 巨人監督を勇退した水原茂の北海道日本ハムファイターズ 東映フライヤーズ監督招聘などで、東映社長の大川博と縁を深めていく。
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1913年11月29日
岩上 二郎(いわかみ・にろう)
政治家
茨城県
岩上 二郎(いわかみ にろう、1913年(大正2年)11月29日 - 1989年(平成元年)8月16日)は、日本の政治家。茨城県都道府県知事 知事、参議院議員を務めます。茨城県那珂郡瓜連町(現茨城県那珂市)生まれ。京都帝国大学法学部卒業。瓜連町町長・茨城県知事を経て参議院議員。知事在任期間は1959年4月23日~1975年4月22日(当選4回)。
日本の国会議員 いわかみにろう
茨城県の政治家 いわかみにろう
都道府県知事・市町村長 いわかみにろう
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1913年12月1日
嘉門 安雄(かもん・やすお)
美術評論家
石川県
1913年12月4日
ロバート=アドラー(Robert Adler)
電気工学者
オーストリア→アメリカ
1913年12月6日
ピエール=プロブスト(Pierre Probst)
絵本作家
フランス
1913年12月6日
デイブ=ブルーベック(Dave Brubeck)
ミュージシャン
アメリカ
1913年12月9日
桑原 甲子雄(くわばら・きねお)
写真家
東京都
桑原 甲子雄(くわばら きねお、1913年12月生まれ)は、写真家。東京都出身。
1930年代初めに写真をはじめます。主として、浅草など、東京の下町の写真を撮影し、写真雑誌の公募で多くの入選を果たす。
1940年には、満鉄の撮影隊にも参加。
戦後は、一転して、雑誌『カメラ』の編集長を皮切りに、いくつもの写真雑誌の編集長を歴任し、写真作品の制作よりも、新人育成や写真評論に重点をおいた活動をでした。
1960年代末頃から、戦前の作品が再評価され始め、現在では、東京にとっての都市写真の第一人者(戦前においては、最高の都市写真家とも)との評価が固まりつつあます。
東京生まれの東京育ちということもあり、東京に対する愛情は著しい。それは、全体をとりまとめて発表するというようなあてもないまま、膨大な作品を残していくという姿勢に現れています。高齢になってもなお、カメラを片手に、まるでさすらうように東京を歩き、撮影しつづける姿は、感動さえ呼び起こす。
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1913年12月10日
堺 駿二(さかい・しゅんじ)
俳優
東京都
堺 駿二(さかい しゅんじ、1913年12月10日 - 1968年8月10日)は、東京都出身のコメディアン。歌手・タレントの堺正章を息子に持つ。息子の正章は彼の血を受け継いでコメディアンとしても活躍しています。
コメディアン さかいしゆんし
日本の俳優 さかいしゆんし
1913年生 さかいしゆんし
1968年没 さかいしゆんし
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1913年12月10日
モートン=グールド(Morton Gould)
作曲家
アメリカ
1913年12月11日
園田 直(そのだ・すなお)
政治家
熊本県
園田 直(そのだ すなお、1913年12月11日 - 1984年4月2日)は、日本の政治家、陸軍軍人。挺進第1連隊第2中隊長等を務め階級は陸軍大尉となます。戦後一町田村助役・同村長・を経て衆議院議員に当選、内閣官房長官・外務大臣・厚生大臣等を歴任します。熊本県天草諸島 天草島出身。弟の園田幹男は陸軍少佐、長男の園田博之 博之は内閣官房副長官・衆議院議員を務めます。
町長・熊本県議会議員を務めた園田二三四の長男として生まれ、天草中学校を卒業し大阪歯科医専に進学するが徴兵に遭い中退し、1935年に現役兵として歩兵第13連隊に入営、同年に幹部候補生 (日本軍) 幹部候補生に抜擢されます。軍役を終えて天草郡下浦小学校助教となり、1937年3月から本渓湖煤鉄公司に入社。同年12月、少尉 予備陸軍少尉に任官され、召集の為同社を退職し歩兵第13連隊に再び入営します。中支方面出征後、独立混成第11旅団参謀部附に移り、1940年、陸軍中尉に進級。1943年、陸軍大尉に進級し、1945年8月の終戦と共に召集解除となり復員します。
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1913年12月12日
フェレンツ=チック(Ferenc Csik)
水泳
ハンガリー
1913年12月13日
アーチー=ムーア(Archie Moore)
ボクシング
アメリカ
1913年12月14日
中田 ダイマル(なかた・だいまる)
漫才師
長崎県
『中田ダイマル・ラケット』より : 中田ダイマル(本名:中田勇夫, 1913年(大正2年)12月14日 - 1982年(昭和57年)9月5日)
中田ラケット(本名:中田信夫, 1920年(大正9年)3月3日 - 1997年(平成9年)2月5日)
戦後の上方漫才を代表する兄弟コンビ。「爆笑王」の異名をとます。
ダイマルは昭和初期に 旅役者の一座を経てから兄と松王・梅王という漫才コンビを結成。後に中田デパート・ダイマルと改名。1941年 昭和16年に兄が戦死し、工員であった弟と再びコンビを組み、中田ダイマル・ラケットを結成しました。
戦後間もないころ 幕間の「拳闘漫才」で話題を博し、民放テレビの黎明期の1958年(昭和33年)に、朝日放送の専属タレントとでした。『お笑い街頭録音』『びっくり捕物帳』『スチャラカ社員』などの番組に出演。1978年(昭和53年)、心斎橋パルコにて、傑作ネタの数々を後世に残すために「笑学の会」主催で3日間にわたる独演会「中田ダイマル・ラケット 爆笑三夜」を行う。
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1913年12月15日
伊東 正義(いとう・まさよし)
政治家
福島県
伊東 正義(いとう まさよし、1913年12月15日 - 1994年5月20日)は、福島県会津出身の政治家。
旧制福島県立会津中学校(現・福島県立会津高等学校)から旧制浦和高校(現・埼玉大学)を経て東京帝国大学法学部を卒業。卒業後、農林省に入省したが、興亜院に出向し、大平正芳、佐々木義武らと机を並べます。
戦後、中国大陸から引き揚げるが、空襲で焼け出され、大平宅に仮寓しその生活がしばらく続く。局長時代には、河野一郎農相と丁々発止のやり取りをして、河野から政治家向きと評価されました。事務次官まで進む。
昭和38年衆院選に初当選。当選回数9回。河野派入りを拒否し、無二の親友・大平正芳との関係から池田派に属したが、池田勇人首相からは「君は大平派だな。」と言われます。第1次大平内閣で自民党財務委員長、第2次大平内閣で内閣官房長官を務め、親友を補佐しました。
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1913年12月18日
アルフレッド=ベスター(Alfred Bester)
SF作家
アメリカ
1913年12月18日
ウィリー=ブラント(Willy Brandt)
政治家
ドイツ
1913年12月24日
横山 隆志(よこやま・たかし)
水泳
高知県
1913年12月29日
武田 作十郎(たけだ・さくじゅうろう)
競馬
北海道
武田 作十郎(たけださくじゅうろう、1913年12月29日 - 1993年3月14日)は、元騎手(日本競馬会、国営競馬、日本中央競馬会)、元調教師(日本中央競馬会)。北海道留萌郡出身。
1930年、京都競馬場の美馬信次厩舎にて見習い騎手となり、1932年、騎手免許取得。1943年から兵役につき、1946年競馬に復帰しました。1963年、調教師免許を取得。1992年2月、調教師を引退。
門下生には武邦彦、河内洋、武豊など一流騎手が多い。
通算成績702戦60勝(日本中央競馬会発足以降)
通算成績7986戦738勝、重賞は1982年の阪神ジュベナイルフィリーズ 阪神3歳ステークス(優勝馬ダイゼンキング)など6勝。
優秀調教師賞(関西)(1965年、1967年、1986年、1987年)
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