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1911年生まれ女性の風水 運勢・方角
1911年生まれの女性 ()
1911年生まれの有名人
1911年1月1日
ハンク=グリーンバーグ(Hank Greenberg)
野球
アメリカ
1911年1月1日
三木 茂(みき・しげる)
古生物学者
香川県
三木茂
三木茂 (植物学者)
三木茂 (カメラマン)
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1911年1月2日
横路 節雄(よこみち・せつお)
政治家
北海道
1911年1月3日
ジョン=スタージェス(John Sturges)
映画監督
アメリカ
1911年1月3日
吉田 義夫(よしだ・よしお)
俳優
京都府
1911年1月11日
鈴木 善幸(すずき・ぜんこう)
政治家
岩手県
鈴木 善幸(すずき ぜんこう、1911年1月11日 - 2004年7月19日)は、昭和後期・平成期の日本の政治家、第70代内閣総理大臣、第10代自由民主党 (日本) 自由民主党総裁。 正二位 大勲位。血液型はO型。
岩手県山田町 (岩手県) 山田町のアワビ、スルメ漁、水産加工業を営む網元の家に生まれました。学生時代の弁論大会で網元制度の前近代性に疑問を投げかける主張を行ったこともあり、就職時には思想傾向を理由に不採用になったこともあます。1947(昭和22)年に日本社会党から衆議院議員選挙に出馬、初当選。後、社会革新党を経て民主自由党に移り、以後保守政治家となます。池田勇人の宏池会に所属し長く党務を中心に活動した後、第1次池田勇人内閣では郵政大臣、第3次池田改造内閣では内閣官房長官、その後も、第1次佐藤栄作改造内閣では厚生大臣、福田赳夫内閣で農林大臣などを歴任。党総務会長を10期務めるなど、裏方で力を発揮する調整型の政治家とみなされていました。
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1911年1月15日
森 一生(もり・かずお)
映画監督
愛媛県
森一生(もりかずお、1911年1月15日-1989年6月29日)は、昭和期の映画監督。
愛媛県松山市に生まれ、京都帝国大学文学部を卒業後、1933年日活太秦撮影所に入社します。
その後、新興キネマに移り、伊藤大輔 (映画監督) 伊藤大輔の助監督を経て、1936年、『仇討膝栗毛』で監督デビューします。その後新興キネマを吸収した大映に移籍し、『大阪商人』などを制作するが、程なく応召されます。
復員後、黒澤明脚本の『決闘鍵屋の辻』を撮り、注目され、1959年には勝新太郎と市川雷蔵を主役にした『薄桜記』が好評を博しました。また、1967年の『ある殺し屋』も新しいタイプのヒーローを市川雷蔵が演じて注目されました。
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1911年1月17日
ジョージ=スティグラー(George Stigler)
経済学者
アメリカ
1911年1月21日
コンラート=ブロッホ(Konrad Bloch)
化学者
ドイツ→アメリカ
1911年1月25日
橋本 弘(はしもと・ひろし)
経営者
富山県
橋本 弘文(はしもと ひろふみ、本名:姜 弘文(カン ホンムン)在日韓国人、1947年1月8日 - )は、ヤクザ、指定暴力団・六代目山口組若頭補佐兼大阪南ブロック長、極心連合会会長、元三代目山健組組長代行。
1963年頃、大阪 ミナミの独立組織・南一家の傘下組織若衆として渡世入り。その後、所属組織が解散したのを機に独立組織として橋本組を結成して活動しました。
1976年、三代目山口組若頭・山本健一 (ヤクザ) 山本健一率いる山健組に加入し、山口組に傘下入り。1983年には橋本組を極心連合会に改称。山本の歿後、渡辺芳則が継承した二代目山健組では若頭補佐を務め、1987年には若頭代行に昇格。渡辺が山口組5代目を継承した1989年、桑田兼吉を組長とする三代目山健組が発足すると、序列2位の若頭に就任。山口組若頭・宅見勝 宅見 勝が暗殺された1997年の暮れに、山口組若頭補佐を務める組長・桑田が逮捕されると、組長不在となった山口組最大の2次団体を守り発展させるべく力を尽くしました。2003年5月、桑田の実刑確定を受けた執行部改編により組長代行に昇格しました。
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1911年1月26日
ポリカープ=クッシュ(Polykarp Kusch)
物理学者
ドイツ→アメリカ
1911年1月28日
吉武 素二(よしたけ・もとじ)
気象学者
山口県
1911年1月30日
アイヴァン=サンダーソン(Ivan Sanderson)
動物学者
アメリカ
1911年2月4日
馬渕 薫(まぶち・かおる)
脚本家
大阪府
1911年2月5日
中村 光夫(なかむら・みつお)
文芸評論家
東京都
中村光夫(なかむら みつお 1911年2月5日 - 1988年7月12日)は、日本の文芸評論家、作家。第6代日本ペンクラブ会長、文化功労者、芸術院会員。私小説批判で有名。
東京市下谷区練塀町(現在の東京都台東区秋葉原)生まれ。本名、木庭一郎。祖父木庭榮は医師。
1917年、東京市本郷区追分小学校に入学。文京区立誠之小学校 本郷区誠之小学校に転じて卒業後、1923年、東京高等師範学校附属中学校入学。
1928年、第一高等学校文科丙類(文系仏語クラス)入学。1931年4月、東京帝国大学法学部に入学するも、同年6月に自主退学。翌1932年4月、東京帝国大学文学部仏文学科に再入学し、1935年3月に卒業。卒論のテーマはモーパッサン。
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1911年2月6日
前川 春雄(まえかわ・はるお)
財政家
東京都
前川 春雄(まえかわ はるお、1911年2月6日-1989年9月22日)は東京都出身の第24代日本銀行総裁。
1935年、東京帝国大学法学部を卒業。日本銀行に入行し、イタリア駐在、ドイツ駐在、ニューヨーク駐在等、国際金融のスペシャリストとして歩みを進めます。外国為替部門の責任者を経て、一度、輸銀へ転出。1974年、副総裁として日本銀行に復帰します。1979年、森永貞一郎の後を受け第24代日本銀行総裁に就任。副総裁には、輸銀時代の上司であった澄田智(後に第25代日銀総裁)を据え「逆転人事」として話題を呼んだ。
日銀総裁就任後、前川は早速、第2次石油危機によるインフレにどう対処するのかという難題に取り組まねばならなでした。前川はそこで絶妙な金融引締め政策を実施し、結果、他の先進諸国がインフレにもがき苦しむ中で、日本経済が最も上手にこの危機を乗り越えることが出来ました。石油危機後もマネーを安定させることに成功。日本経済はインフレなき成長を達成し、前川日銀による政策運営は国際的に高い評価を得ました。1984年、大蔵省出身の澄田智に総裁職を譲り、日銀をでした。
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1911年2月6日
ロナルド=レーガン(Ronald Wilson Reagan)
政治家
アメリカ
1911年2月7日
レオ=フリージンガー(Leo Freisinger)
スピードスケート
アメリカ
1911年2月9日
井植 薫(いうえ・かおる)
経営者
大阪府
1911年2月10日
宗 道臣(そう・どうしん)
武術家
岡山県
宗 道臣(そう どうしん、元の名は中野道臣(なかのみちおみ)1911年2月10日 - 1980年5月12日)は、日本の武道家、思想家で、1947年(昭和22年)10月25日に香川県仲多度郡多度津町で日本の武道の一つである少林寺拳法を創始した人物であます。少林寺拳法を通じて、日本の将来を担う青少年育成を目指した教育家でもでした。
宗道臣は現在の岡山県美作市で1911年(明治44年)に生まれ、柔術・剣術家でもあった祖父・宗重遠を頼って当時の満州へ移住。その後太平洋戦争直後の1947年(昭和22年)10月満州から帰国するが、自分の事しか考える余裕のない日本人の姿を見て心を痛めます。若者達に他人を思いやる心を持ってもらおうと、禅の精神修養と護身を旨とする拳法の流派および宗教団体たる少林寺拳法を創始します。(この時に名を「みちおみ」から「どうしん」と改めました。)少林寺拳法は別派を認めない世界で唯一の宗教団体及び武道団体として結束力が強い。中国の少林拳と混同されやすいが、全く別の武術であます。
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1911年2月11日
カール=セイファート(Karl Seyfert)
天文学者
アメリカ
1911年2月12日
チャールズ=マティーセン(Charles Mathiesen)
スピードスケート
ノルウェー
1911年2月14日
ウィレム=コルフ(Willem Johan Kolff)
医学者
オランダ→アメリカ
1911年2月15日
山下 勇(やました・いさむ)
経営者
東京都
1911年2月15日
淀井 敏夫(よどい・としお)
彫刻家
兵庫県
淀井 敏夫(よどい としお、1911年 - 2005年)は兵庫県朝来市生まれの彫刻家。日本の現代具象彫刻の第一人者であます。削げたような形態と岩のような質感のユニークな作品で知られます。
大阪市立工芸学校を経て東京美術学校彫刻科卒業後、主に二科会を舞台にして、心棒に石膏を直付けする独自の技法で対象を叙情的に表現した具象彫刻を発表。
同時に大阪市立工芸学校教諭、東京芸術大学教授・美術学部長を勤めて後進の指導にあたるなど、日本の彫刻界に貢献しました。
1911年 - 兵庫県朝来郡朝来町佐中に生まれる
1948年 - 「老人胸像」で、二科展特別賞受賞
1965年 - 東京芸術大学教授就任
1972年 - 第1回平櫛田中賞受賞
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1911年2月16日
石野 久男(いしの・ひさお)
政治家
三重県
石野 久男(いしの ひさお、男性、1911年2月16日 – )は、昭和期の政治家(元日本社会党衆議院議員)。
三重県志摩郡大王町(現・志摩市)出身。1936年早稲田大学政治経済学部を卒業後、高速機関工業(株)を経て、日立製作所に入社。戦後、同社水戸工場長秘書を務めていた時に労組結成に参加し、日立製作所水戸工場社員組合執行委員長、日立製作所労働組合総連合中央執行委員長を歴任した後、1947年第23回衆議院議員総選挙に旧茨城2区から日本社会党公認で立候補し当選します。以後当選10回。
初当選から間もなく、芦田内閣の予算案に反対して除名となり、黒田寿男・岡田春夫・園田天光光 松谷天光光らとともに労働者農民党を結成。中央執行委員、書記長などを歴任しました。1957年社会党に合流、最左派の「平和同志会」に所属していました。
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1911年2月16日
野瀬 正儀(のせ・まさのり)
土木技術者、経営者
兵庫県
1911年2月18日
加東 大介(かとう・だいすけ)
俳優
東京都
加東 大介(かとう だいすけ、1911年2月18日 - 1975年7月31日)は東京都生まれの俳優。本名、加藤徳之助。府立七中(現・東京都立墨田川高等学校)卒。歌舞伎役者を経て映画デビュー。
初期は市川莚司名で、山中貞雄監督の『河内山宗俊』や『人情紙風船』などに出演。兵役を1933年に伍長勤務上等兵(後の兵長)で除隊し終えていたが、1943年に陸軍衛生伍長として応召。ニューギニア戦線で、兵士たちを鼓舞するための劇団づくりを命じられ、長谷川伸の『瞼の母』を演じます。舞台に降る「雪」に故国を見た兵士たちの姿を描いた記録は、戦後にベストセラーとなった小説『南の島に雪が降る』に結実します。
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1911年2月18日
児玉 誉士夫(こだま・よしお)
右翼活動家
福島県
児玉 誉士夫(こだま よしお、1911年2月18日 - 1984年1月17日)は、日本の右翼運動家で、A級戦犯に指名されたが後に釈放。後にはロッキード事件の被告となます。「政財界の黒幕」、「フィクサー」と呼ばれました。
児玉誉士夫は、1911年に福島県安達郡本宮町 (福島県) 本宮町の没落した士族(旧二本松藩士)の家に生まれた(?)。1920年8歳の時に朝鮮に住む親戚の家に預けられ、京城商業専門学校を卒業した後(なお、その後日本大学皇道科を卒業したということになっている)、工場の単純労働者として辛酸を舐めました。
児玉は最初社会主義に傾倒したが、その後超国家主義に転じ、玄洋社の頭山満に私淑しました。1929年には赤尾敏によって創設された急進的な右翼団体「建国会」に加でした。すぐに昭和天皇に直訴しようとして捕まり、半年投獄された後、1932年には「独立青年社」を設立、当時の斎藤実 斎藤首相や閣僚の暗殺を計画して、3年半の懲役刑を受けました。
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1911年2月19日
ビル=バウワーマン(Bill Bowerman)
体育学者
アメリカ
1911年2月23日
釜洞 醇太郎(かまほら・じゅんたろう)
医学者
大阪府
1911年2月24日
伊藤 清永(いとう・きよなが)
洋画家
兵庫県
伊藤 清永(いとう きよなが、1911年 - 2001年6月5日)は、昭和期の洋画家であます。裸婦像の名手として知られます。
兵庫県出石町下谷(現在の豊岡市)生まれ。日展および白日会を中心に活躍しました。
1911年 - 兵庫県出石町下谷に生まれる
1928年 - 岡田三郎助門下生となり本郷研究所入所
1935年 - 東京美術学校油絵科卒業
1936年 - 文部省美術展で「磯人」が選奨(特選)受賞
1947年 - 日展で「I夫人像」が特選受賞
1948年 - 日展で「室内」が特選受賞
1953年 - 伊藤絵画研究所創設
1956年 - 日展審査員
1962年 - 渡欧し、フランスとオランダで制作
1977年 - 「曙光」が日本芸術院恩賜賞および日展内閣総理大臣賞受賞
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1911年2月25日
伊達 正男(だて・まさお)
野球
大阪府
1911年2月26日
伊藤 翁介(いとう・おうすけ)
作曲家
東京都
1911年2月26日
岡本 太郎(おかもと・たろう)
洋画家、彫刻家
東京都
岡本 太郎(おかもと たろう、1911年2月26日 - 1996年1月7日)は、芸術家。
「芸術は爆発だ」「グラスの底に顔があっても良いじゃないか」などの名言を残しました。抽象絵画、シュルレアリスムとも関わます。縄文時代 縄文や沖縄の魅力に再注目した人物でもあます。平面・立体作品を数多く残し、文筆活動も精力的にでした。後年はTVなどメディアへの露出も多でした。1970年に開かれた大阪の日本万国博覧会 万国博覧会のシンボル「太陽の塔」を作ったことでも知られます。没後は住居・アトリエ跡に岡本太郎記念館が設立されました。母は作家の岡本かの子。父は漫画家の岡本一平。生涯独身を通したが、秘書であった岡本敏子(故人)を養女にしました。敏子は太郎没後、多くの著作を通して太郎の再評価に貢献しました。
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1911年2月26日
山本 幸雄(やまもと・さちお)
政治家
三重県
1911年2月27日
明石 一男(あかし・かずお)
工業デザイナー
新潟県
1911年2月27日
三宅 重光(みやけ・しげみつ)
経営者
東京都
1911年2月28日
デニス=バーキット(Denis Burkitt)
医学者
アメリカ
1911年3月1日
竹中 錬一(たけなか・れんいち)
経営者
兵庫県
1911年3月3日
尾崎 小太郎(おざき・こたろう)
経営者
香川県
1911年3月14日
北裏 喜一郎(きたうら・きいちろう)
経営者
和歌山県
北裏 喜一郎(きたうら きいちろう、1911年3月14日 - 1985年10月30日)は、昭和期の実業家。
野村證券元社長・会長。和歌山県出身。神戸高等商業学校卒業後、1933年に野村證券へ入社。1968年から社長就任。1978年から会長を務めました。
1911年生 きたうら きいちろう
1985年没 きたうら きいちろう
日本の実業家 きたうら きいちろう
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1911年3月16日
黒田 了一(くろだ・りょういち)
憲法学者、政治家
大阪府
黒田了一(くろだりょういち・1911年3月16日-2002年9月2日)は、憲法学者、元大阪府知事。在任、1971年4月-1979年4月。大阪府吹田市生まれ。
大阪市立大学教授として憲法学を教えていたが、1971年の大阪府知事選挙に日本社会党 社会党と日本共産党 共産党の支持を受けて、現職の左藤義詮に挑む形で立候補しました。このとき、社共共闘がなかなかまとまらず、正式な出馬表明は告示日ぎりぎりまでずれこんだ。出馬にあたり社会党の亀田得治大阪府本部委員長と共産党の村上弘大阪府委員長と記者会見を行い、「このまま出馬を拒むなら革新諸勢力の統一の機運は一気にくずれる」と述べ、出馬表明をでした。前年に日本万国博覧会を成功させていた現職の左藤は「黒田という人は見たことも聞いたこともない」と発言、再選を確信していました。選挙戦で黒田は「大阪にきれいな空を取り戻そう」と公害・環境対策を訴え、左藤を破って当選、初の革新系大阪府知事とでした。
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1911年3月20日
アルフォンソ=ガルシア=ロブレス(Alfonso Garcia Robles)
外交官
メキシコ
1911年3月22日
安井 謙(やすい・けん)
政治家
岡山県
安井 謙(やすい けん、男性、1911年3月22日 - 1986年3月10日)は日本の政治家。岡山県出身。兄は、戦後の初の東京都知事安井誠一郎。京大 京都帝国大学経済学部卒業。
京大時代は学生運動に参加、「マルクス坊や」と呼ばれるほど左翼思想に傾倒していました。1935年に卒業後は南満州鉄道に入社。戦後安井都知事の政務秘書を経て、1950年第2回参議院議員選挙に東京地方区から出馬しトップ当選。以後、参議院議員を6期務めました。
党務では、参議院幹事長、田中角栄、三木武夫、福田赳夫ら歴代総裁の下で参議院議員会長、自民党東京都連会長などを歴任。
また政務で吉田茂内閣で労働政務次官、池田勇人内閣で自治大臣兼国家公安委員長、佐藤栄作内閣で国務大臣・総理府総務長官を歴任。総務長官時代には建国記念の日導入にたずさでした。
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1911年3月23日
川村 清一(かわむら・せいいち)
政治家
北海道
1911年3月24日
ジョセフ=バーベラ(Joseph Roland Barbera)
アニメ作家
アメリカ
1911年3月25日
野口 忠夫(のぐち・ただお)
政治家
福島県
1911年3月26日
テネシー=ウィリアムズ(Tennessee Williams)
作家
アメリカ
1911年3月26日
バーナード=カッツ(Bernard Katz)
医学者(生理学)
ドイツ→イギリス
1911年4月6日
フィオドル=リネン(Feodor Lynen)
化学者
ドイツ
1911年4月8日
メルビン=カルビン(Melvin Calvin)
化学者
アメリカ
1911年4月8日
藤山 一郎(ふじやま・いちろう)
歌手
東京都
藤山 一郎(ふじやま いちろう、1911年4月8日 - 1993年8月21日)は、日本の国民的歌手・声楽家・作曲家・指揮者。東京都日本橋 (東京都) 日本橋蛎殻町出身。本名は増永丈夫。本名ではクラシック音楽の声楽家として活動。愛称はピンちゃん。モスリン問屋「近江屋」の三男に生まれ、東京音楽学校(現東京芸術大学音楽部)に学び、クラシック音楽の正統派歌唱から大衆的なポピュラー音楽まで幅広い分野で活躍しました。『酒は涙か溜息か』『丘を越えて』『青い山脈 (歌) 青い山脈』など多数のヒット作をもち、戦前戦後を通じ、日本のポピュラー音楽を代表する大歌手であます。
藤山は日本橋長谷川町(現在の中央区 (東京都) 中央区日本橋堀留町)に店を出していたモスリン問屋「近江屋」の5人兄弟の末っ子として生まれました。父は増永信三郎、母はゆう。一番上が長女の恒子、二番目が長男の正夫、つづいて次男の文夫、次女八千代、そして三男丈夫ででした。父信三郎と姉八千代は丈夫を良く浅草に連れてでした。この時、雑誌の物売りや粗悪品を売るテキ屋、アメ屋の売り子などの歯切れの良い口上や売り文句を聴いていた事が、後に歌手・藤山一郎の言葉は明瞭で歯切れが良いと言われる要因とでした。
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1911年4月9日
野間 省一(のま・しょういち)
出版人、経営者
静岡県
1911年4月10日
植谷 久三(うえたに・ひさみつ)
経営者
三重県
1911年4月10日
マーティン=デニー(Martin Denny)
ミュージシャン
アメリカ
1911年4月11日
楢崎 弥之助(ならざき・やのすけ)
政治家
福岡県
楢崎 弥之助(ならざき やのすけ、大正9年(1920年)4月11日 - )は、昭和・平成期の日本の政治家。元衆議院議員(11期)。福岡県出身。民主党 (1996-) 民主党前衆議院議員の楢崎欣弥は長男。
九州帝大(現・九州大学)法学部卒業。昭和35年(1960年)に日本社会党(社会党)公認で出馬し初当選(以後11期連続当選)。その後、社会党を離党し、田英夫らと共に社会民主連合(社民連)を結成し書記長、副代表を歴任しました。
ロッキード事件やリクルート事件など数々の疑惑を暴いたため「国会の爆弾男」との異名を持ち、政治スキャンダル追及の中心的役割をでした。
昭和58年(1983年)に衆議院予算委員会で自衛隊のクーデター計画が浮上している話を暴露。だが、このクーデター計画自体がその後の調べで存在していないことが発覚。更にこの情報を提供した人物が詐欺で全国に指名手配されていたことが判り、国会は大きく混乱することとなり、新聞に謝罪広告を出すことにでした。また、この責任を取り議員辞職も余儀なくされました。
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1911年4月21日
小倉 謙(おぐら・けん)
警察官僚
愛知県
1911年4月23日
蛯名 武五郎(えびな・たけごろう)
競馬
青森県
1911年4月25日
ハンス=ベック(Hans Beck)
ノルディックスキー/ジャンプ
ノルウェー
1911年5月3日
池田 恒雄(いけだ・つねお)
出版人、経営者
新潟県
池田 恒雄(いけだ つねお;1911年5月3日~2002年2月9日)は、昭和・平成期のスポーツを中心としたジャーナリストであます。
新潟県出身。早稲田大学 早大在学中の1931年に雑誌「野球界」の編集に携わり、雑誌編纂や野球の魅力にとりつかれていく。
戦後1946年、もとから立ち上げていた恒文社からベースボール・マガジン社を分離して創立。社長でありながら記者としても活動、現場で取材を行い、精力的な出版活動をでした。1958年には週刊ベースボールを創刊、従来の季刊、月間ではなく、「現場の臨場感をできるだけ早く伝える」ために週刊化に踏みでした。時は長嶋茂雄が読売ジャイアンツに入団して間もない時代、野球人気は学生野球からプロ野球へと移ろうとしている時期であり、池田の先を見る目は極めて確かであったといえます。
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1911年5月5日
市古 貞次(いちこ・ていじ)
国文学者
山梨県
市古 貞次(いちこ ていじ、1911年5月5日 - 2004年3月25日)は、日本の国文学者。専門は中世日本文学。
山梨県甲府市生まれ。旧制巣鴨中学校(現巣鴨中学校・高等学校)、第一高等学校 (旧制) 第一高等学校文科甲類を経て、1934年東京帝国大学文学部国文学科卒業。
1976年から日本学士院会員、2000年日本学士院院長就任も、2001年健康上の問題で辞職。1990年文化勲章、1984年文化功労者、1973年紫綬褒章。全国大学国語国文学会代表理事、日本古典文学会理事長等も歴任。
1936年東京帝国大学文学部副手、1939年第一高等学校 (旧制) 第一高等学校講師、1940年同教授、1950年東京大学教養学部助教授、1954年同大文学部助教授、1957年同教授。1973年東京大を定年退官し国文学研究資料館初代所長就任。
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1911年5月7日
ティーブ釜萢(てぃーぶ・かまやつ)
歌手
アメリカ
1911年5月7日
本多 猪四郎(ほんだ・いしろう)
映画監督
山形県
本多 猪四郎(ほんだ いしろう、1911年5月7日 - 1993年2月28日)は日本の映画監督。
山形県鶴岡市出身。日本大学芸術学部映画学科卒業。円谷英二とのコンビで多くの特撮映画を監督しました。
:ニックネームで「いのさん」と呼ばれることもあったが、名前は本来「いしろう」と読む。黒澤明の親友でもあり、『影武者 (映画) 影武者』以後の黒澤の映画を支えました。その墓には次のような言葉を刻んだ碑が立っています。「本多は誠に善良で誠実で温厚な人柄でした 映画のために力いっぱいに働き十分に生きて本多らしく静かに一生を終えました 平成五年二月二十八日 黒澤明」。大林宣彦監督による「異人たちとの夏」にカメオ出演したこともあます。
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1911年5月8日
池田 芳蔵(いけだ・よしぞう)
経営者
兵庫県
池田 芳蔵(いけだ よしぞう、1911年5月8日 - 2001年8月13日)は、日本の実業家。
兵庫県出身の三井物産の社長、会長を歴任した経営者。1936年東京大学経済学部卒。三井物産社長時代はイラン・ジャパン石油化学プロジェクト (IJPC) を積極的に推進したが、イラン革命やイラン・イラク戦争などで撤退を余儀なくされました。このことは『バンダルの塔』(高杉良著)に詳しく書かれています。
日本放送協会会長に就任したことでも知られます。
1911年生 いけた よしそう
2001年没 いけた よしそう
日本の実業家 いけた よしそう
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1911年5月14日
マッチ=ラード(Matti Lahde)
ノルディックスキー
フィンランド
1911年5月15日
丹羽 兵助(にわ・ひょうすけ)
政治家
愛知県
丹羽兵助(にわ ひょうすけ、1911年5月15日 - 1990年11月2日)は、昭和・平成期の政治家(元自由民主党衆議院議員)。孫は自民党衆議院議員の丹羽秀樹。
愛知県出身。1955年の衆院選に旧愛知2区から出馬し初当選。当選12回。自民党内では傍流の番町政策研究所 三木→河本派に所属。第2次田中角榮内閣第2次改造内閣 第2次田中内閣の国土庁長官、第1次中曽根内閣の総理府総務長官・沖縄開発庁長官、竹下改造内閣 竹下内閣の労働大臣などを歴任。1988年、勲一等旭日大綬章受章。腰の低い人柄から「お辞儀の丹羽兵」と呼ばれたが、1990年10月21日、来賓として出席していた名古屋市・守山駐屯地の陸上自衛隊記念式典で統合失調症を患った暴漢に首をナイフで刺されました。出血多量のため搬送された病院では、血液型が異なる輸血をされる医療事故も重なり、12日後の11月2日に死去。享年79。
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1911年5月16日
正示 啓次郎(しょうじ・けいじろう)
政治家
和歌山県
1911年5月17日
アンドレ=ジョネ(Andre Jaunet)
ミュージシャン/フルート
フランス
1911年5月18日
北沢 彪(きたざわ・ひょう)
俳優
東京都
1911年5月21日
ルネ=タベルニエ(Rene Tavernier)
詩人
フランス
1911年5月24日
ネー=ウィン(Ne Win)
政治家
ミャンマー
1911年5月27日
ヒューバート=ハンフリー(Hubert Humphrey)
政治家
アメリカ
1911年5月31日
モーリス=アレ(Maurice Allais)
経済学者
フランス
1911年6月4日
島岡 吉郎(しまおか・きちろう)
野球
長野県
島岡 吉郎(しまおか きちろう、1911年6月4日 - 1989年4月11日)は元明治大学硬式野球部監督。ラグビー部の北島忠治監督と共に、明治大学の名物監督として知られた人物。
長野県高森町 (長野県) 高森町出身。東京の旧制豊山中学、現日本大学豊山高等学校を経て、明治大学政治経済学部予科入学。明治大学在学中は応援団長として活躍しました。
1946年明治大学付属明治中学校・高等学校 明治高校野球部監督に就任。3度の甲子園出場を果たす。(1950年・1951年選抜高等学校野球大会 選抜大会、1950年全国高等学校野球選手権大会 選手権大会)
1952年、かねてから助監督を務めていた明治大学野球部の監督に就任。大学当局の要請による首脳部人事であったが、応援団出身・野球未経験監督の就任は、大学当局と駿台倶楽部(明治大学野球部OB会)の対立や、部員の集団退部という事態を招くこととなます。
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1911年6月7日
八木 一男(やぎ・かずお)
政治家
奈良県
1911年6月13日
ルイス=アルバレズ(Luis Walter Alvarez)
物理学者
アメリカ
1911年6月15日
レブランド=ウィルバート=オードリー(Reverend Wilbert Awdry)
児童文学作家
イギリス
1911年6月19日
ジークバルト=エクルンド(Sigvard Eklund)
物理学者
スウェーデン
1911年6月22日
河本 敏夫(こうもと・としお)
政治家
兵庫県
河本敏夫(こうもと としお 明治44年(1911年)6月22日 - 平成13年(2001年)5月24日)は、昭和、平成期の政治家、衆議院議員、実業家。
1911年兵庫県相生市生まれ。旧制龍野中学(現・兵庫県立龍野高等学校)から姫路高等学校 (旧制) 旧制姫路高校(神戸大学の前身校)にトップの成績で入学。マルクス主義の影響を受けて反戦運動に参加し、1930年退学を余儀なくされました。炭坑夫や職工などを経て日本大学法文学部に入学しました。在学中に義兄らと三光汽船(当時、三光海運)を設立、卒業後の1937年から社長となます。1949年の衆議院議員総選挙で旧兵庫4区から初当選。以後、連続17回当選。
1968年に佐藤栄作内閣の郵政大臣として初入閣した後、政界の玄人筋からは、三木派 三木武夫派の資金調達役として知られていたが、存在が一躍注目されるようになったのは三木内閣で通産大臣に就任してからであます。福田赳夫内閣でも通産相、鈴木善幸、中曽根康弘両内閣で経済企画庁長官などを歴任しました。自民党でも昭和51年(1976年)、昭和53年(1978年)の2度にわたって自由民主党政務調査会 政調会長を務めました。自民党屈指の政策通、経済通として知られ、三木に批判的な立場だった大平正芳や後藤田正晴にも「一角の人物」と一目置かれました。政策としては積極財政論を唱えることが多でした。
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1911年6月22日
レオポルド=ベラック(Leopold Bellak)
精神分析学者
オーストリア→アメリカ
1911年6月24日
ファン=マヌエル=ファンジオ(Juan Manuel Fangio)
レーシングドライバー
アルゼンチン
1911年6月25日
杉浦 幸雄(すぎうら・ゆきお)
漫画家
東京都
杉浦 幸雄(すぎうら ゆきお、1911年6月25日 - 2004年6月18日)は、日本の漫画家。本稿で詳述。
杉浦 幸雄(すぎうら ゆきお、1942年2月3日 - )は、日本の薬学者。京都府京都市出身。京都大学薬学部卒業、同大学院薬学研究科中退。京都大学化学研究所教授。日本薬学会役員。
1992年に「抗がん抗生物質のブレオマイシンの作用メカニズムの解明に関する研究」によりアップジョン医学研究フェローシップ賞受賞。共著に『いのちと暮しのケミ・ストーリー』(近畿化学協会編、化学同人刊、1989年)などがあます。
杉浦 幸雄(すぎうら ゆきお、1911年6月25日 - 2004年6月18日)は、漫画家。
東京都出身。学業の傍ら本郷絵画研究会へ通う。郁文館中学(旧制)卒業後の1929年から岡本一平に師事。演劇にも熱中し1930年にはテアトルコメディの座員になるが、父親の会社が倒産し、役者になるのを断念して漫画家を目指す。
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1911年6月25日
ウィリアム=スタイン(William Howard Stein)
化学者
アメリカ
1911年6月26日
高山 辰雄(たかやま・たつお)
日本画家
大分県
高山辰雄(たかやま たつお、1912年6月26日 - )は、昭和~平成の日本画家。
1912年(明治45年)、大分市に生まれます。1931年(昭和6年)、東京美術学校(現・東京藝術大学)日本画科に入学、1936年(昭和11年)に卒業しています。在学中から松岡映丘の画塾に入り、師事しました。美校の卒業制作『砂丘』(1936年)は、砂の上に座るセーラー服姿の若い女性を俯瞰的に描いた洋画風の作品で、後の高山の作風を思わせるものはほとんどない。
高山は戦後まもない1946年(昭和21年)ころ、ポール・ゴーギャン ゴーギャンの伝記を読んで感銘を受け、その後の作風にはゴーギャンの影響がみられるようになます。1946年、第2回日展に裸婦2人を描いた『浴室』を出品し、特選となます。1949年(昭和24年)には日展に『少女』を出品し、やはり特選となます。この頃から独自の幻想的な画風が定着します。
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1911年6月29日
バーナード=ハーマン(Bernard Herrmann)
作曲家
アメリカ
1911年6月30日
チェスワフ=ミウォシュ(Czeslaw Milosz)
詩人
リトアニア→ポーランド
1911年7月2日
半田 義之(はんだ・よしゆき)
作家
神奈川県
1911年7月5日
ジョルジュ=ポンピドゥー(George Jean Pompidou)
政治家
フランス
1911年7月7日
高木 養根(たかぎ・やすもと)
経営者
岐阜県
1911年7月8日
藤田 五郎(ふじた・ごろう)
ドイツ文学者
東京都
藤田 五郎(ふじた ごろう)
ドイツ語学者の藤田五郎(1911年-1997年)は藤田五郎 (ドイツ語学者)を参照。
小説家、任侠・右翼墓碑研究家の藤田五郎(1931年-1993年)は藤田五郎 (小説家)を参照。
幕末、明治の剣客で、新選組三番隊組長である斉藤一(1844年-1915年)の別名。
社会経済史の学者である藤田五郎(1915年9月28日‐1952年12月8日)は藤田五郎(歴史学者)を参照。
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1911年7月9日
ジョン=ホイーラー(John Archibald Wheeler)
物理学者
アメリカ
1911年7月10日
佐々木 定道(ささき・さだみち)
経営者
鳥取県
1911年7月18日
ヒューム=クローニン(Hume Cronyn)
俳優
カナダ
1911年7月21日
熊田 千佳慕(くまだ・ちかぼ)
画家
神奈川県
1911年7月21日
マーシャル=マクルーハン(Marshall McLuhan)
社会学者
カナダ
1911年7月23日
片岡 清一(かたおか・せいいち)
政治家
富山県
片岡清一(かたおか せいいち、1911年7月23日 - 1999年2月26日)は、日本の政治家(元自由民主党衆議院議員。富山県砺波市出身。
東京帝国大学法学部政治学科卒業後、内務省に入省。砺波市長を務めた後、1972年の衆議院議員選挙に前年死去した松村謙三の後継者として旧富山2区から出馬し初当選。連続当選6回。自民党内では中曽根康弘派に属し、1988年12月から翌年の6月まで竹下内閣改造内閣 竹下内閣の郵政大臣を務めました。1989年勲一等瑞宝章受章。1990年政界引退。
1999年2月26日心不全のため死去。享年87。
日本の国会議員 かたおかせいいち
日本の閣僚経験者 かたおかせいいち
富山県の政治家 かたおかせいいち
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1911年7月25日
藤本 四八(ふじもと・しはち)
写真家
長野県
1911年7月28日
ゲルハルト=シュテック(Gerhard Stock)
陸上競技/槍投げ
ドイツ
1911年8月5日
田宮 虎彦(たみや・とらひこ)
作家
東京都
田宮 虎彦(たみや とらひこ、1911年8月5日-1988年4月9日)は、昭和期の小説家。
神戸市に育ち、東京帝国大学文学部国文学科在学中から、同人誌『日暦』に参加し、小説「無花果」などを発表します。1936年、『人民文庫』創刊とともに参加するが、思想統制によりまもなく廃刊。その後、女学校教師などをしながら小説修業を続けます。
1947年に『世界文化』に発表した「霧の中」で注目され、小説家生活に入ます。精力的に作品を発表し、1951年『絵本』で毎日出版文化賞を受けます。
1988年1月に脳梗塞で倒れ、右半身不随になり、同年4月9日、北青山のマンションから投身自殺します。享年77。
父は高知市、母は香美郡香宗村(現・香南市)の出身。高知へ帰ることも多く土佐を郷里と意識していました。
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1911年8月9日
ウィリアム=ファウラー(William Alfred Fowler)
物理学者
アメリカ
1911年8月17日
ミハイル=ボトヴィニク(Mikhail Botvinnik)
チェス
ソ連
1911年8月23日
ビルガー=ルート(Birger Ruud)
ノルディックスキー/ジャンプ
ノルウェー
1911年8月23日
ジーン=ケリー(Gene Kelly)
俳優
アメリカ
1911年8月28日
角谷 静夫(かくたに・しずお)
数学者
大阪府
1911年8月28日
ヨゼフ=ルンス(Joseph Luns)
外交官
オランダ
1911年9月1日
安倍 幸明(あべ・こうめい)
作曲家
広島県
1911年9月1日
大野 源一(おおの・げんいち)
将棋
東京都
1911年9月3日
宮崎 辰雄(みやざき・たつお)
政治家
兵庫県
宮崎 辰雄(みやざき たつお、1911年 1911(明治44)年9月3日 - 2000年 2000(平成12)年2月22日)は政治家。元神戸市山岳連盟会長。瑞宝章 勲一等瑞宝章(1990年11月3日)。
旧制神戸三中(現兵庫県立長田高等学校)を経て、姫路高等学校 (旧制) 旧制姫路高校に入学するも、河本敏夫退学問題に端を発する全校ストライキに参加し放学処分となます。その後1936年 1936(昭和11)年立命館大学専門部法学科卒業。大学卒業後は神戸市役所入庁。神戸市助役を経て、1969年 1969(昭和44)年から神戸市市長 長を5期20年務めた他、財団法人神戸都市問題研究所の創設者・理事長としても活躍しました。
「最小の経費で最大の市民福祉」を基本理念に、神戸のシンボル「六甲山」を大胆に削り取り、その土砂を神戸港の埋め立てに利用することで、ポートアイランドや六甲アイランドなど巨大な人工島を次々に造成。1981年(昭和56年)には神戸ポートアイランド博覧会協会会長として「ポートピア”81」の開催を成功させました。また、埋め立て地の売却益や、外国金融機関からの起債を中心に、国からの補助金に頼ることなく自力で神戸市を大きくする行政手法を展開。一連の宮崎行政は「株式会社神戸市」と呼ばれ、国内外から大きな注目を浴びました。
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1911年9月7日
トドル=ジフコフ(Todor Zhivkov)
政治家
ブルガリア
1911年9月12日
西山 千(にしやま・せん)
通訳
アメリカ
1911年9月14日
川崎 秀二(かわさき・ひでじ)
政治家
三重県
川崎 秀二(かわさき ひでじ、1911年9月14日 - 1978年2月22日)は、昭和期の政治家。父親は戦前の立憲民政党代議士の川崎克。現厚生労働大臣の川崎二郎は次男。
大阪府大阪市生まれ。1935年早稲田大学政治経済学部を卒業。早大時代は陸上部に所属する傍ら、学内の弁論大会に参加し、痛烈な軍部批判を行って入賞したこともあます。卒業後はNHKに入局するも、戦時中は応召により中国大陸を転戦、この時の経験から、戦後日中友好運動に挺身することとなます。
企画部副部長を最後にNHKを退職し、1946年戦後第1回目の衆議院議員選挙に父親の地盤を引き継いで旧三重1区から出馬し当選、以後当選11回。日本進歩党から改進党、日本民主党を経て、保守合同後の1955年、第2次鳩山内閣に厚生大臣として入閣、国民年金・国民皆保険の導入に向け尽力します。これらはいずれも1960年代初頭に実現をみることとなます。その後は松村謙三、古井喜実らとともに日中国交回復への土台固めに務める傍ら、尾崎行雄記念財団理事長として1960年尾崎行雄会館を建設します。同会館は1970年に憲政記念館となます。
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1911年9月18日
坂井 時忠(さかい・ときただ)
政治家
佐賀県
1911年9月19日
ウィリアム=ゴールディング(William Gerald Golding)
作家
イギリス
1911年9月19日
小林 恒夫(こばやし・つねお)
映画監督
東京都
1911年9月20日
関 孝二(せき・こうじ)
映画監督
東京都
1911年9月24日
巌 金四郎(いわお・きんしろう)
俳優
東京都
1911年9月24日
コンスタチン=チェルネンコ(Konstantin Chernenko)
政治家
ソ連
1911年9月25日
エリック=ウィリアムズ(Eric Eustace Williams)
政治家
トリニダード・トバゴ
1911年9月26日
尾高 尚忠(おたか・ひさただ)
作曲家
東京都
尾高 尚忠(おたか ひさただ、1911年9月26日 - 1951年2月16日)はNHK交響楽団 日本交響楽団の元指揮者であり,また作曲家であます。父は郷土教育家の尾高豊作、兄弟に法哲学者の尾高朝雄・尾高邦雄がいます。
東京生まれ。幼少の頃から音楽に親しみ、成城大学 成城学園中退の後1931年にウィーンに留学。翌年一時帰国して武蔵野音楽大学 武蔵野音楽学校で作曲科の教鞭を取ます。1934年に再びウィーンに渡り、作曲の他指揮をフェリックス・ワインガルトナーに学ぶ。在欧中の1938年から指揮者として活躍し、あわせて自作の披露もでした。1940年に帰国後、1941年1月にNHK交響楽団 新交響楽団を指揮し日本デビューを飾ます。新交響楽団が日本交響楽団に改組する直前に山田一雄 山田和男とともに新響の専任指揮者となり、時期的に演奏活動が難しくなっていったジョセフ・ローゼンストックを支え、また定期演奏会の指揮台にでした。戦後も引き続いて日響のタクトを振って活躍したが、戦中~戦後に蓄積した極度の疲労から1951年1月12日の名古屋市 名古屋での地方公演を最後に病に倒れ、39歳の若さで夭折しました。3月5日に山田和男指揮による追悼演奏会が行われました。
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1911年9月26日
永田 亮一(ながた・りょういち)
政治家
兵庫県
1911年9月29日
麻生 太賀吉(あそう・たかきち)
実業家、政治家
福岡県
麻生 太賀吉(あそう たかきち、明治44年(1911年)9月29日 - 昭和55年(1980年)12月2日)は、日本の実業家、政治家。麻生セメント会長。吉田茂の女婿。外務大臣の麻生太郎は長男。麻生セメント社長の麻生泰は次男。寛仁親王 寬仁親王妃寛仁親王妃信子 信子は三女。文芸評論家の大井廣介(麻生賀一郎)はいとこ 従兄。
明治44年(1911年)9月29日、九州の炭鉱王、麻生太吉の孫として福岡県飯塚市に生まれます。昭和4年(1929年)旧制福岡中学校(現、福岡県立福岡高等学校)を卒業、昭和4年から昭和7年まで九州帝国大学(現九州大学)法文学部聴講生。昭和8年(1931年)に祖父の経営する麻生商店に入社し、翌昭和9年(1932年)社長となます。関連会社である、麻生鉱業社長、麻生セメント社長を務めました。さらに九州財界の重鎮である九州電力会長を歴任しています。
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1911年10月1日
小西 秀次(こにし・しゅうじ)
経営者
三重県
1911年10月1日
椎名 麟三(しいな・りんぞう)
作家
兵庫県
椎名 麟三(しいな りんぞう, 明治44年(1911年)10月1日 - 昭和48年(1973年)3月28日)は、小説家であます。
:明治44年(1911年10月1日)、兵庫県飾磨郡曾左村之内書写村(そうさむらのうちしょしゃむら)(現・姫路市書写東坂(ひがしさか))に出生。父は大坪熊次(おおつぼ・くまじ)、母はみすの。長男。本名・大坪昇(おおつぼ・のぼる)。家庭の事情から困窮し、14歳で家出。旧制姫路中学(現・兵庫県立姫路西高等学校)を中退し、果物屋、出前持ち、コック見習いなどの職を転々としました。宇治川電鉄(現・山陽電鉄)の車掌時代に日本共産党に入党。昭和6年(1931年)に特高に検挙されたが、獄中で読んだニーチェ『この人を見よ』をきっかけに転向し、文学を志す。戦後『深夜の酒宴』(昭和22年、1947年)で登場。ドストエフスキーからイエス・キリストを知り、昭和25年(1950年)、キリスト教へ入信。以後キリスト教作家として活動。昭和48年(1973年3月28日)に死去。61歳。
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1911年10月1日
リカルト=トリアーニ(Richard Torriani)
アイスホッケー
スイス
1911年10月1日
堀江 幸夫(ほりえ・ゆきお)
経営者
東京都
1911年10月2日
武谷 三男(たけたに・みつお)
物理学者
福岡県
1911年10月2日
ジャック=フィニイ(Jack Finney)
SF作家
アメリカ
1911年10月4日
日野原 重明(ひのはら・しげあき)
医師
山口県
日野原 重明(ひのはら しげあき、1911年10月4日 - )は医師。山口県山口市生まれ。勲等は勲二等瑞宝章。学位は学士 医学士(京都帝国大学)。東京都名誉都民。東京都中央区名誉区民。名誉博士(人文科学)(トマス・ジェファーソン大学)、名誉博士(マックマスター大学)。その他の栄誉に文化功労者、文化勲章、東京都文化賞、日本医師会最高優功賞、日米医学科化学者賞(フィラデルフィア医師会、日本キリスト教文化協会日米キリスト教文化功労者。
関西学院中学部、京都の第三高等学校 (旧制) 第三高等学校を経て京都帝国大学医学部に入学。在学中に結核にかかり、当時実家の有った広島市で約一年間闘病生活を送ます。1937年に京都帝国大学を卒業。1941年に聖路加国際病院の内科医となり、内科医長、院長を歴任します。現在は同病院名誉院長であり、数多くの著書でも知られています。なお、よど号ハイジャック事件に遭遇した経験を持つ(九州で開催される内科学会に出席するため搭乗していた)。日本初のハイジャック事件ということもあり、犯人グループが「この飛行機は我々がハイジャックした」という犯行声名に対し、ハイジャックという言葉の意味を知らなかった日本人乗客のために自ら手を挙げ、「ハイジャックとは飛行機を乗っ取って乗客を人質にすることです」と機内で説明しています。
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1911年10月8日
河野 秋武(こうの・あきたけ)
俳優
長崎県
1911年10月9日
ジョー=ローゼンソール(Joe Rosenthal)
写真家
アメリカ
1911年10月10日
青沼 三朗(あおぬま・さぶろう)
俳優
東京都
1911年10月10日
秦野 章(はたの・あきら)
政治家
神奈川県
秦野 章(はたの あきら、1911年(明治44年)10月10日 - 2002年(平成14年)11月6日)は、昭和期の官僚・政治家。
神奈川県出身。日本大学夜間部卒業。生糸試験所勤務を経て1939年(昭和14年)に高等文官試験合格後、内務省入省。香川県商工課長を経て兵庫県警刑事課長時代には神戸市に於ける暴力団摘発作戦で自ら拳銃を手に陣頭指揮しました。後に内務省警保局、大阪府警刑事部長、警視庁刑事部長等を経て、1967年(昭和42年)、私大出身者では初の警視総監に就任。1971年(昭和46年)に佐藤栄作首相の強い要請で東京都知事選に立候補したが、革新風潮が極めて強かった東京においては、現職美濃部亮吉に大差で敗れ落選。
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1911年10月11日
ホアン=ザバラ(Juan Zabala)
陸上競技/マラソン
アルゼンチン
1911年10月12日
小島 利男(こじま・としお)
野球
愛知県
1911年10月13日
朝田 静夫(あさだ・しずお)
運輸官僚、経営者
大阪府
朝田 静夫(あさだ しずお、1911年10月13日-1996年11月8日) は、運輸省 運輸事務次官を経て、日本航空社長を10年にわたり務めました。大阪府大阪市出身。
東京大学法学部を卒業し、逓信省(総務省、日本郵政の前身)に入省。戦後の省庁再編で運輸省に移り、官房長、海運局長を経て、事務方トップの事務次官に就任。海運業界再編などを手掛けました。
退官後、政府の特殊会社だった日本航空に天下り、専務、副社長を経て、1971年、社長に就任しました。日航機のニューヨーク乗り入れ、日ソ、日中の路線開設交渉に手腕を発揮したが、1972年にモスクワでの日航機墜落事故、1974年に羽田発那覇行きジャンボ機の乗っ取り事件が起き、安全管理体制の再構築も迫られました。81年に社長を退任し、相談役にでした。
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1911年10月14日
レ=ドゥク=ト(Le Duc Tho)
政治家
ベトナム
1911年10月18日
花沢 徳衛(はなざわ・とくえ)
俳優
東京都
花沢徳衛(はなさわ とくえ、1911年10月18日 - 2001年3月7日)は、日本の俳優。東京都出身。
1936年に京都のJ.Oスタジオ(現在の東宝。)に入所、その翌年に映画デビュー。頑固な親父役などで人気を博しました。
役者になる前は家具職人や油絵の修行をしていたこともあり、その実績から自らの作品の個展をひらいたこともでした。
2001年、前立腺癌のため、89歳で帰らぬ人となます。
日本共産党の党員でもあり、党歴は50年を越えました。しんぶん赤旗紙上にもたびたびコメントを載せていました。
権三と助十
真空地帯
警視庁物語シリーズ
八つ墓村
釣りバカ日誌3
おはなはん(NHK)
刑事さん(テレビ朝日 NET、東映東京製作所)
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1911年10月20日
石津 謙介(いしづ・けんすけ)
服飾評論家
岡山県
石津 謙介(いしづ けんすけ、1911年10月20日 - 2005年5月24日)は岡山県岡山市出身のファッションデザイナーであます。
旧制岡山第一中学(現・岡山県立岡山朝日高等学校 県立岡山朝日高校)を経て明治大学商科専門部を卒業後、実家の紙問屋の経営を引き継いだが、ファッションへの造詣が深く、当時の中華民国・天津で洋品店に勤務。戦後はファッションメーカー・レナウン (会社) レナウンに勤務した後1951年に独立し、「VAN」ブランドとして知られる「ヴァンヂャケット 株式会社ヴァンヂャケット」を設立。特にブレザーとボタンダウンシャツをベースとした学生のファッションスタイルを「アイビールック」として紹介し、若者のファッション文化に改革をもたらしました。さらに銀座にある「みゆき通り」をそれを着た若者で埋め尽くす「みゆき族」まで登場しました。
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1911年10月20日
藤井 勇(ふじい・いさむ)
野球
鳥取県
藤井 勇(ふじい いさむ、1916年10月20日 - 1986年2月7日)は鳥取県出身。昭和初期から中期(1930年代後半-1950年代)のプロ野球選手、プロ野球監督。阪神タイガース 大阪タイガースと横浜ベイスターズ 大洋ホエールズの創立時に選手として在籍し、戦後は松竹ロビンス 大陽ロビンスの選手としてもプレーしました。日本プロ野球の公式戦において、初めてホームラン 本塁打を記録した選手として知られます。左投げ左打ち、左翼手、後に一塁手。1952年から1953年までの登録名は秀郎。
鳥取第一中学校では、四番打者として高校野球 甲子園に3度出場し、1934年夏には沢村栄治率いる優勝候補の京都商業を破っています。1935年11月に大阪タイガースと入団契約を結び、同年12月10日の球団結成に参加しました。翌1936年に現在の日本プロ野球の前身である日本野球連盟 (プロ野球) 職業野球連盟が発足し、日本のプロ野球リーグ戦が始でした。
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1911年10月23日
西 常雄(にし・つねお)
彫刻家
東京都
1911年10月24日
クラレンス=ケリー(Clarence Marion Kelley)
官僚
アメリカ
1911年10月25日
香月 泰男(かづき・やすお)
洋画家
山口県
香月泰男(かづきやすお、男性、1911年10月25日 - 1974年3月8日)は山口県大津郡三隅町 (山口県) 三隅町(現・長門市)出身の油絵画家。
山口県立大津中学校(現・山口県立大津高等学校)卒業後、川端美術学校を経て1931年に東京美術学校に入学、藤島武二の教室に学ぶ。
1936年、美術学校卒業後、北海道庁立倶知安中学校(現・北海道倶知安高等学校)の美術教師として着任。その後、山口県立下関高等女学校(現・山口県立下関南高等学校)に転任します。
1942年、太平洋戦争の開始で、召集を受け、満州へ。
1945年、ソビエト連邦 ソ連シベリアにて抑留され、クラスノヤルスク地区のセーヤ収容所で強制労働に従事。これが、彼のシベリア原体験となり、その後の作品全体の背景となます。
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1911年10月25日
花森 安治(はなもり・やすじ)
編集者
兵庫県
花森 安治(はなもり やすじ、1911年10月25日 - 1978年1月14日)は、編集者、グラフィックデザイナー。生活雑誌『暮しの手帖』を創刊しました。
除隊されたとはいえ戦争の不条理と悲惨さの一端を経験した彼は、終戦後の1946年、衣装研究所(現・暮しの手帖社)を設立し、雑誌『スタイルブック』を創刊しました。そして1948年には生活雑誌『美しい暮しの手帖』(後に『暮しの手帖』に改題)を創刊します。『暮しの手帖』は、生活者の立場に立って提案や実験を行うユニークな雑誌で、中立性を守るため企業広告を一切載せないという理念の元に、現在まで発行されています。花森は編集長として自ら紙面デザインや取材に奔走し、死の前日まで第一線で編集に当でした。反骨精神と奇矯ながら真摯な行動でも知られ、数々の逸話を残す。
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1911年11月1日
ウォルター=オルストン(Walter Alston)
野球
アメリカ
1911年11月1日
アンリ=トロワイヤ(Henri Troyat)
作家
ロシア→フランス
1911年11月5日
入江 稔夫(いりえ・としお)
水泳
大阪府
1911年11月9日
田中 敏文(たなか・としぶみ)
政治家
青森県
1911年11月12日
奥田 宗宏(おくだ・むねひろ)
指揮者
神奈川県
1911年11月12日
串田 孫一(くしだ・まごいち)
哲学者
東京都
1911年11月13日
杉浦 敏介(すぎうら・びんすけ)
経営者
東京都
杉浦敏介(すぎうら びんすけ、1911年11月13日 - 2006年1月27日)は、東京都出身の実業家。元日本長期信用銀行(現新生銀行)頭取。
東京帝国大学(現東京大学)法学部卒業後の1935年、日本勧業銀行(現みずほフィナンシャルグループ)に入行したが、1952年に設立された日本長期信用銀行創立に参加。専務、副頭取を経て1971年5月から1978年6月まで頭取。その後は会長、相談役最高顧問などを務めました。会長時代も含め20年近くも経営トップの座に君臨し、「長銀中興の祖」とともに「長銀のドン」と呼ばれました。在職中、リース・不動産・流通といった新興企業へ積極的な貸出姿勢をとったが、バブル崩壊後にことごとく不良債権化し、結局1998年に長銀が経営破綻しました。その後、道義的責任を問われるが本人はこれを否定し続けました。しかし周囲の勧めもあり、自宅を売却し9億円の退職金の一部2億円を返還しました。
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1911年11月14日
井関 尚栄(いせき・しょうえい)
法医学者
福井県
1911年11月17日
鹿内 信隆(しかない・のぶたか)
経営者
北海道
鹿内 信隆(しかない のぶたか、1911年11月17日 - 1990年10月28日)は、日本の実業家で、フジサンケイグループ初代会長。
1911年11月17日、北海道由仁町に生まれます。実家は写真館。
北海道岩見沢東高等学校卒業後、1936年、早稲田大学政治経済学部卒業、のちに早大総長で恩師にあたる阿部賢一(徳富蘇峰娘婿)の紹介で倉敷絹織(現・クラレ)に入社し菊池寅七専務が業務拡大のため興した三徳工業の創設事務を手伝い、その常務課長に抜擢されました。1938年応召し、予備役召集第一回の幹部候補生となり若松町の陸軍経理部に進み、のち主計少尉。ここで日清紡の専務で軍と折衝していた桜田武や大日本再生紙社長の水野成夫らと需給計画を通じて知り合う事になます。軍務時代慰安所設置に尽力していました。(自著:いま明かす戦後秘史に詳しい)これが彼と財界人脈を結ぶ接点となます。
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1911年11月21日
三原 脩(みはら・おさむ)
野球
香川県
三原 脩(みはら おさむ、1911年11月21日 - 1984年2月6日)は、香川県仲多度郡神野村(現・まんのう町)出身。昭和初期から後期(1930年代後半-1970年代前半)のプロ野球選手(二塁手)・プロ野球監督。右投げ右打ち。旧名は修。画像:Mizuhara-Mihara Douzou.jpg thumb 210px 水原茂(左)、三原脩(右)の銅像
香川県立丸亀高等学校 香川県立丸亀中学校(旧制。以下同じ)で野球にのめり込み、官吏になることを望んだ父親の意向で香川県立高松高等学校 香川県立高松中学校に転校させられたが、高松中は野球部入部を条件に転入を認めました。高松中では遊撃手として全国高等学校野球選手権大会 夏の甲子園に出場。卒業後一度は第四高等学校を受験するが、早稲田大学にスカウトされ入学。一年生時から二塁手として活躍します。特に1931年春季の早慶戦第2戦で、投手・水原茂を相手に回して敢行した勝ち越しホームスチールは、早慶戦史に名を残しています。しかし結婚を機に野球部を退部(当時早大野球部では、学生結婚は好ましく思われていなかった)、一旦野球から離れてしまう。1934年6月6日に職業野球契約選手第1号として読売ジャイアンツ 大日本東京野球倶楽部に入団、1936年春季からのリーグ戦には東京巨人軍の選手兼助監督として参加。俊足・堅守の選手だったが、応召で脚を負傷したこともあって僅か実働4年で現役引退。
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1911年11月22日
斎藤 英四郎(さいとう・えいしろう)
経営者
新潟県
斎藤 英四郎(さいとう えいしろう、1911年11月22日 - 2002年4月22日)は、新日本製鐵の元社長。経済団体連合会(経団連)第6代会長。
新潟県北蒲原郡安田町 (新潟県) 安田町(現:阿賀野市)出身。新潟県立新潟高等学校 新潟中学校、旧制新潟高等学校を卒業。東京帝国大学法学部(東京大学)の入試に失敗、神戸商大に入学するも、翌年、東京帝大経済学部に入学。
経済学部を卒業後、三菱鉱業(現:三菱マテリアル)入社。のち、日本製鉄に移り、八幡製鉄専務、新日本製鐵専務、副社長などを経て社長に。2002年、死去。
1935年:三菱鉱業入社。
1941年:日本製鉄(現・新日本製鉄)入社。
1970年:新日鉄専務(販売担当)。
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1911年11月24日
ジョー=メドウィック(Joe Medwick)
野球
アメリカ
1911年11月27日
モーリス=コーエン(Morris Cohen)
材料工学者
アメリカ
1911年11月28日
中村 元(なかむら・はじめ)
仏教学者
島根県
哲学者の1人。ここで説明。
TBS(東京放送)のカメラマン。
中村 元(なかむら はじめ、1911年(明治44年)11月28日 - 1999年(平成11年)10月10日)は、日本を代表する哲学者、仏教学者。
島根県・松江市出身。在家出身でありながらも、仏教思想にとどまらず、西洋哲学にも幅広い知識をもち思想における東洋と西洋の超克を目指していました。東京大学卒業。長く東大教授を勤めます。東大教授退官後は、財団法人東方学院を設立。一般への東洋思想の普及にも尽力しました。また比較思想学のパイオニアとして、比較思想学会も創設した。
サンスクリット語に精通し、仏典などの解説に代表される著作は多数にのぼます。わかりやすい翻訳や解説には定評があます。東京大学名誉教授、日本学士院会員。文化勲章受章。勲一等瑞宝章受賞。
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1911年11月30日
四手井 綱英(しでい・つなひで)
森林生態学者
京都府
四手井 綱英(しでい つなひで, 男性, 1911年11月30日 - )は、森林生態学者で、京都大学農学部名誉教授。
京都府生まれ。京都大学農学部林学科卒業、京都大学農学部教授、京都府立大学学長を経て、現在京都大学名誉教授。
里山の提唱者で、数多くの著書を出しています。
『森の人四手井綱英の九十年』(晶文社、2001年1月) ISBN 4794964692
『森林 3』(法政大学出版局、2000年3月) ISBN 4588205331
『森林 2』(法政大学出版局、1998年11月) ISBN 4588205323
『言い残したい森の話』(人文書院、1993年10月) ISBN 4409240447
『森に学ぶ エコロジーから自然保護へ』(海鳴社、1993年6月) ISBN 4875251548
その他多数
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1911年11月30日
田村 泰次郎(たむら・たいじろう)
作家
三重県
1911年11月30日
藤田 義光(ふじた・よしみつ)
政治家
熊本県
1911年12月1日
吉山 博吉(よしやま・ひろきち)
経営者
山口県
1911年12月2日
加藤 陸奥雄(かとう・むつお)
生物学者(昆虫学)
宮城県
1911年12月3日
ニーノ=ロータ(Nino Rota)
作曲家
イタリア
1911年12月4日
大軒 順三(おおのき・じゅんぞう)
経営者
静岡県
1911年12月5日
金田 邦夫(かねだ・くにお)
経営者
広島県
1911年12月5日
ウワディスワフ=シュピルマン(Wladyslaw Szpilman)
ミュージシャン/ピアノ
ポーランド
1911年12月9日
瀬島 龍三(せじま・りゅうぞう)
軍人、経営者
富山県
瀬島 龍三(せじま りゅうぞう、1911年12月9日 - )は、大日本帝国陸軍 陸軍軍人、経営者。富山県出身。岳父は松尾伝蔵。陸士44期卒。
富山・富山県立砺波高等学校 砺波中学、陸軍幼年学校を経て、陸軍士官学校 陸士を2番(首席は原四郎)、陸軍大学校 陸大を首席で卒業(昭和天皇から恩賜の軍刀を受ける)。太平洋戦争(大東亜戦争)時、大本営参謀(陸軍部作戦課)としてガダルカナル島の戦い ガダルカナル撤収作戦、ニューギニア作戦などを担当。1945年7月、関東軍参謀に転出。最終階級陸軍中佐。降伏後停戦交渉に赴くも、シベリアへ11年間抑留されます。この間極東国際軍事裁判(東京裁判)にソ連側証人として出廷。
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1911年12月10日
河石 達吾(かわいし・たつご)
水泳
広島県
1911年12月10日
ジミー原田(じみー・はらだ)
ミュージシャン
神奈川県
1911年12月11日
ヴァル=ゲスト(Val Guest)
映画監督
イギリス
1911年12月11日
ナギーブ=マフフーズ(Naguib Mahfouz)
作家
エジプト
1911年12月16日
山崎 平八郎(やまさき・へいはちろう)
政治家
福岡県
1911年12月18日
金森 政雄(かなもり・まさお)
経営者
山口県
1911年12月18日
ジュールス=ダッシン(Jules Dassin)
映画監督
アメリカ
1911年12月21日
ジョシュ=ギブソン(Josh Gibson)
野球
アメリカ
1911年12月21日
鈴木 清一(すずき・せいいち)
経営者
愛知県
1911年12月21日
フランク=フェナー(Frank Fenner)
医学者
オーストラリア
1911年12月22日
君 健男(きみ・たけお)
政治家
新潟県
1911年12月23日
ニールス=ヤーネ(Niels Jerne)
医学者(免疫学)
イギリス
1911年12月26日
太宰 久雄(だざい・ひさお)
俳優
東京都
太宰 久雄(だざい ひさお、1923年12月26日 - 1998年11月20日)は、俳優。東京都台東区浅草出身。映画「男はつらいよ」シリーズのタコ社長役(桂梅太郎)で有名な俳優であます。同映画において渥美清演じる車寅次郎との掛け合いは、映画の見所のひとつででした。
浅草の海苔問屋の息子として生まれます。タコ社長役で見られた髪型は、当時の浅草の海苔問屋の商人たちの間で流行っていた髪形であるといわれてる(あのように、独特のウェーブは魚の鯔の背中の姿を模しているから、イナセと呼ばれる江戸時代に流行ったスタイルでもあった)。元々俳優志望ではなく、日本大学商学部を中退後、実家の海苔問屋を手伝った時期もあり、いずれは家業を継ぐつもりであったが、東京大空襲で店が全焼。戦後の1946年にNHK東京放送劇団に入り、ラジオやアニメの声優として活躍。この頃に三崎千恵子など、後の「男はつらいよ」シリーズで共演する人たちと知り合う。その後、黎明期であったテレビで活躍する一方、映画にも進出。1966年に渥美清演じるドラマ「泣いてたまるか」に出演し、掛けあいの面白さが注目されます。
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1911年12月28日
岡本 陸人(おかもと・むつと)
出版人、経営者
長野県
1911年12月29日
小沼 正(おぬま・しょう)
右翼活動家
茨城県